友人知人や顔見知りの人と雑談が弾み、その流れで「何語を話すの?」と尋ねられるのは個人的にまったく抵抗はなく、むしろわが育児におけるメインテーマのひとつなのでいろいろ話し込みたいとすら思うのですが、エレベーターで乗り合わせたおばちゃん、宅配のお兄さんなどから何の前置きもなく「英語?」「会話は英語ですか?」と尋ねられるのは話が別です。上の子が産まれた5年前はいきなり「ハーフ?」「どこのハーフですか?」と尋ねられることが多々あり、その頻度は今では減っているので、代替の質問として「英語?」が使われているのかもしれません。
その話を友人にすると、「確かに『ハーフ?』と同じように、特に深い意味はなく反射的に出た質問なのかもね」「特に年配の人なんかは『英語が話せるってカッコいい』って感覚があるから、ほめことばのつもりでもあるかも」と言われ、その気持ちもよくわかります。ただ、ハーフに限らず複数の国籍、文化、言語をバックグラウンドに持っている家庭にとって、何のことばを話すかは案外センシティブな事柄だったりするのです。
バイリンガルなどマルチリンガルの子は、比較的ことばのでる時期が遅めです。わが家が暮らしていたアメリカ・シアトルでは、子どもが2歳を過ぎて既定の単語数を口にできていないと、言語聴覚療法士(スピーチセラピスト)が家庭訪問に来ました。マルチリンガル家庭はこの家庭訪問を受けがちで、「そんなに深刻な問題なのか」「うちの子には言語障害があるのだろうか」と深刻に受け止めてしまう人も多かったです。
英語も日本語も話せない、となるとどちらか1本に絞ったほうがいいだろう──と、父親か母親の言語をあきらめる家庭もありました。しかし、言語をひとつあきらめるというのは父方あるいは母方の家族との生活・コミュニケーションをあきらめることでもあります。わが家の第一子もアメリカに住んでいるのにほとんど英語をしゃべらず、日本語を解さない父親やその家族との会話には母親の私が通訳として介入しなければならない時期がありました。もし将来ずっとこのままだったら寂しいな、それに保育園に入るには英語ができなきゃ、と日本語の割合を減らすことも検討しました。でも日本語を抑えれば抑えるほど、日本での生活や日本の家族は遠ざかっていきます。
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