「参よ、吾が道は一以って之れを貫く」

 孔子は、弟子の曽子に、「参(曽子の名前)よ」と呼びかけて言います。

「私の生きる道は、たった一つのことで貫かれているのだよ」 

 曽子は、これを聞いて、「はい。わかります」と答えるのですが、しかし、他の門人たちは、孔子が言った意味がわかりません。そこで「さっきの対話はどんな意味なのですか?」と曽子に聞いたところ、曽子は皆にこう教えます。

「夫子の道は忠恕のみ(先生の道は忠恕、ただそれだけだよ)」

「忠恕」は、一言でいえば「思いやり」です。

「忠」とは、一般的に「自己の良心に忠実なこと」と解釈されますが、漢字の成り立ちを見ると「心」を「中(あ)てる」と書きますね。「中」は、反時計回りに90度回転させると、一本の矢が、的の真ん中を貫いている形になります。「中(あ)たる」です。一本の矢は言葉であり、行為です。何に中てるかと言えば、「的」は相手の心。他人が欲していることを感じ取って、そこを射抜く、こうして、人の心をつかむことを「忠」と言います。
 
 では「恕」とは何でしょう。「恕」という字は「如」と「心」で作られています。「如」は「自分とペアとなる相手」を意味します。相談者さんの場合であれば、妻ということになるでしょうし、会社という組織で言うなら、上司や部下、取引先の方となります。これに「心」が付くと、「いつも相手の側の心に立ってものを考える」という意味になります。すなわち「忠恕」とは、「他人が何を欲しているのかということを、相手の立場に立って思いやる」ということです。

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