歴史上の人物を独自の視点で紹介する、小中学生向け月刊誌「ジュニアエラ」の連載「歴史人物 ON STAGE」。1月号では、2022年の大河ドラマの主役となる北条義時をはじめ、覚えておきたい3人の鎌倉時代の執権を紹介した。
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鎌倉幕府は、源頼朝によって開かれた。しかし、源氏の将軍は3代しか続かず、4代目以降の将軍はただのお飾りの存在となった。代わって権力を握ったのが執権の北条氏だ。執権とは将軍を補佐する役職で、お飾りの将軍のもとでは、実質、幕府ナンバーワンの立場となる。
鎌倉幕府で代々執権を務めた北条氏は、伊豆を勢力にした地方武士だ。もともとは源頼朝の敵である平氏側の武士で、当主の時政は、伊豆に流された頼朝の監視役だった。ところが、娘の政子が頼朝と結婚したことで、頼朝に味方するようになり、鎌倉幕府の創設に大きな貢献をした。
しかし、頼朝の子・頼家が2代将軍になると、隠していた牙をむきだす。頼朝の死後、鎌倉幕府は頼家のもと、13人の有力御家人の合議制で政治を行うことになっていた。13人のうちの1人だった時政は、なんと頼家を将軍の座から降ろして頼家の弟の実朝を将軍にし、自らは執権となって幕府の実権を握ったのだ。
時政の息子の義時も、3代将軍実朝が暗殺されると、4代目に名ばかりの将軍を立て、以降、代々北条氏が執権となって幕府の実権を握る執権政治の基礎をつくった。
執権として権力を握ったとはいえ、鎌倉幕府の創設には、北条氏以外にも多くの有力御家人が貢献していて、重要な役職についていた。彼らは北条氏にとってのライバルだ。
時政や義時は、これらのライバルを滅ぼすなどして幕府内での勢力を強め、ついには北条氏が御家人のトップの座に君臨することになる。
8代執権時宗の時代に起きた2度のモンゴル襲来は、鎌倉幕府最大のピンチだった。このピンチをしのいだ時宗は、モンゴル撃退に活躍した御家人たちに大いに感謝するかと思いきや、そんなことはなかった。御家人たちへの恩賞をしぶる一方、北条氏が支配する土地を増やし、勢力を強めていったのだ。
恩賞をもらうために、軍事費を肩代わりしてまで戦った御家人たちにとってはとんでもない話だ。モンゴル襲来以降、北条氏の勢力がますます強まっていくなか、貧しさにあえぐ御家人たちの「北条憎し」の思いはふくれあがっていった。このことが、やがて鎌倉幕府が滅ぶ大きな原因となったのである。
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