ベルリンの壁崩壊から30年 今も残る「壁」とは? 〈AERA〉|AERA dot. (アエラドット)

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ベルリンの壁崩壊から30年 今も残る「壁」とは?

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ベルリンの壁崩壊後、壁に群がり喜ぶ民衆たち(写真/gettyimages)

ベルリンの壁崩壊後、壁に群がり喜ぶ民衆たち(写真/gettyimages)

 東西冷戦の象徴だった「ベルリンの壁」が崩壊してから11月9日で30年がたった。ベルリンの壁とは何だったのか。壁がなくなってから、社会はどう変わったのか。小中学生向けのニュース月刊誌「ジュニアエラ」12月号に掲載された記事を紹介する。

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 1989年11月9日にドイツの首都ベルリンを二つに区切っていた「壁」が崩れ、今年で30年。かつて東西に分かれていたドイツは、壁がなくなった約1年後に統一された。だが、今も東西の経済格差はあり、国民の間には「心の壁」も残る。

 第2次世界大戦の後、世界の多くの国がソ連(現在のロシアなど)を中心とした東側の陣営と、アメリカを中心とした西側の陣営に分かれ、いわゆる「冷戦」の状態になった。ドイツも49年に東西に分かれたうえ、東側にあるベルリン市の中も東西に分けられた。だが、当初は市内を自由に行き来できていた。

 東ドイツでは市民が厳しい監視下に置かれ、自由に国外旅行もできなかった。このため、経済的に豊かで自由な西ベルリンに脱出する人が増え続けた。東ドイツ政府は61年8月、壁をつくって国民が逃げないようにした。「ベルリンの壁」と呼ばれたこの分断は東西冷戦を象徴する存在となった。

 当初、有刺鉄線やブロックの積み上げだった壁は次第に立派になり、高さ3メートル超のコンクリート製に。西ベルリンは全長150キロメートル以上にわたって取り囲まれた。

 壁付近では兵士が監視塔から見張り、地雷が埋められた。警備をかいくぐって西ベルリンへの脱出に成功した人たちがいた一方で、途中で見つかって撃たれるなどして、少なくとも140人以上が亡くなった。

 89年夏には、ハンガリーなど近隣国を経由して東ドイツから逃れる人が増えた。国内にとどまる人たちの中でも、民主的な政府を求めて街頭でデモをする人たちが増え、東ドイツ政府も抑え込めなくなっていった。

 89年11月9日夜、東ドイツの政府幹部が記者会見で「条件なしで東から西への出国が許可される」という趣旨の発表をしたところ、ニュースを知ったベルリン市民が国境の検問所に殺到。検問所は開かれ、東西を遮る「壁」は意味をなさなくなった。

 翌90年の10月3日、東西ドイツは統一された。だが、東側の地域は、統一から30年近く経つ今も、西側と比べて経済的に立ち遅れ、自分たちが「西側の人たちより劣っている」と感じている人は多いという。メルケル首相も「国は一つになっても、ドイツ人の結束はまだ完全ではない」と述べている。(朝日新聞ベルリン支局長・野島淳)

※月刊ジュニアエラ 2019年12月号より


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