沖縄代表はかつて甲子園の土を持って帰れなかった? 高校野球のうんちく6連発を紹介

【甲子園で輝いたスターたち!】 田中将大選手/... (11:30)AERA

【甲子園で輝いたスターたち!】 田中将大選手/... (11:30)AERA
 クラブ活動からオリンピックまで、規模もレベルもさまざまな舞台で、多くの人を夢中にさせるスポーツ。話題になったニュースを子ども向けにやさしく解説してくれている、小中学生向けの月刊ニュースマガジン『ジュニアエラ』では、毎号、一つの競技を取り上げて、やっても見ても楽しくなるうんちく(深~い知識)を紹介するよ。今回は特別企画として、高校野球を紹介するよ。

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「夏の甲子園」とは、毎年8月に兵庫県西宮市の阪神甲子園球場で行われる全国高等学校野球選手権大会のこと。参加校は、北海道と東京が2校のほかは各府県1校ずつが基本だが、100回記念大会となる今年(8月5日から21日まで。休養日1日含む)は、特別に埼玉・千葉・神奈川・愛知・大阪・兵庫・福岡からも2校が出場し、史上最多の56校が優勝を争う。甲子園球場では毎年3月下旬から4月に選抜高等学校野球大会が行われ、「春の甲子園」「センバツ」といわれる。

<高校野球のうんちく6連発!>
(1)甲子園ができたのは高校野球のため!

 夏の甲子園の第1回大会は、1915年、大阪の豊中球場で行われた。第3回から9回は兵庫の鳴尾球場が会場となったが、人気が高まって超満員の観客がグラウンドになだれ込むなどの事態が発生。そこで、6万人収容の甲子園球場がつくられ、24年の第10回大会から会場として使われるようになった。

(2)朝鮮・台湾・満州代表も参加した

 大正時代の末期から昭和時代初期には、当時、日本の領土とされた朝鮮や台湾、日本の影響が強かった満州からも夏の甲子園に参加している。1926年には満州代表の大連商、31年には台湾代表の嘉義農林が準優勝した。

(3)延長25回の大激戦!

 1933年の第19回大会準決勝の明石中(兵庫)─中京商(愛知)は、規定の9回をはるかに超え、延長25回、約5時間に及ぶ大熱戦の末に中京商の勝利。スコアボードは16回までしかなく、以降は手書きで追加した。その後、延長18回(のちに15回)で引き分け再試合となり、今年から、延長13回以降、得点の入りやすい無死一、二塁から試合を行う「タイブレーク制」が導入される。

(4)太平洋戦争中は中止 戦意発揚の競技も

 太平洋戦争の影響で、1941年から5年間、夏の甲子園は中止になった。42年には戦意発揚を目的に、文部省と大日本学徒体育振興会が主催する体育大会の一種目として甲子園で全国大会が行われたが、正式な大会にはカウントされず、「幻の甲子園」といわれている。ちなみにこの大会では野球以外に、手榴弾を投げて走るなど、戦争中ならではの種目もあった。

(5)開会式の先導、春と夏で違う

 夏の甲子園の開会式では、兵庫県の市立西宮高校の女子生徒が、各校のプラカードを持って選手を先導している。1949年から現在まで続く伝統で、祖母、母、娘の3代にわたって参加した生徒もいる。ちなみに春の甲子園の開会式の先導役は、2007年まではボーイスカウトの高校生が、08年以降は各出場校の生徒が務めている。

(6)沖縄代表は甲子園の土を持ち帰れなかった

 太平洋戦争が終わっても、アメリカの占領下におかれた沖縄の高校は、甲子園に出場できなかった。ようやく出場できた1958年も、まだアメリカ領のままだった。初戦で敗れて、選手は甲子園の土を集めて持ち帰ろうとしたが、病原菌などの侵入を防ぐ法律のため、「外国の土」とみなされて持ち込めず、泣くなく、海に捨てなければならなかった。

※月刊ジュニアエラ 2018年8月号より

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