「新しいことに挑戦したかった」とアメリカ発のコンビニエンスストア、セブン-イレブンへ加盟した山本憲司さん(70)。未踏の商いの道をひらいてきた足跡と、次代へかける思いをお聞きした。
1974年5月15日、受け継いだ酒屋を日本のコンビニ文化を担う第1号に。雨にもかかわらず800人超が来店した
もう毎日、無我夢中でした。当然ですが、周りにコンビニは一軒もなく「セブン-イレブンって何?」という時代でしたからね。「どんな売り場がいいのか」「品ぞろえはどうするか」など、本部の方々と入念に話し合い、新しい商いのかたちを探っていきました。そういった意味で、本部とは二人三脚どころか、一心同体という実感がありました。
私の店は20坪と狭かったため、例えば、ドリンクを陳列するのに後ろから並べられる棚があれば効率的だなとか、大量在庫を減らすために小ロットの納品にできないかなど“現場(店)”で起きた課題を本部と共有し、一つひとつ解決していったんです。各メーカーさんの製品を少量ずつ、同じトラックで運ぶ「共同配送」も、一度にたくさんの商品が納品され、膨大な在庫に困った現場の声から実現したものでした。
こうしたことは、個人の商店ではできなかったでしょう。店は商いに専念し、本部はシステムなどを構築してバックアップする──日本ではまだ珍しかったフランチャイズビジネスに、加盟してよかったなぁと思います。
そうして奮闘するうち、「(深夜も)開いててよかった」と便利に利用されるお客さまが増え、売り上げがついてきました。また新しい業態としてマスコミに取り上げられ、セブン-イレブンの認知度が上がっていくわけです。
すると、私と同じ商店主が続々と加盟されるようになって、豊洲店がオープンした2年後には仲間が100店超に。「セブン-イレブンはもう大丈夫だ」と、みんなで喜んだのを覚えています。
苦労したとか、大変だったとか、そんなふうに感じたことがないんです。
家業を継いだ私は、従来の商いのやり方を続けてもよかったんですよね。でも、商売のために大学を中退した以上、自分でもっと学ぼう、広い世の中を知ろうと勉強しました。その中で、アメリカにコンビニエンスストアという新しい商売があることを知り、興味を持ったんです。自由な発想が生かせる商売にチャレンジできるんじゃないか──そう思って、セブン-イレブンに飛び込みました。
毎日が発見と挑戦の繰り返し。楽しくて仕方ありませんでした。品ぞろえひとつ取ってみても、何が売れるかわからないから、創意工夫が欠かせません。例えば、銭湯帰りのお客さまの様子を見ていると、よくビールをお求めになる。当時瓶ビールが主流でしたが、缶ビールのほうが早く冷えて便利なんじゃないか?と思ったんです。でも「ブリキ製」の缶ビールが出回っていた時代でしたから、お客さまが「素材(ブリキ)の臭いが気になる」と言うんですね。そこで新発売の「アルミ缶ビール」を仕入れ、POPまで書いて並べてみたんです。売れに売れましたよ。
こんなふうにお客さまのほうを向いていると、商売は成り立つんですよ。
考えてみると、創業当初の苦労を苦労と感じなかったのは、私が育った環境から「商売に浮き沈みはつきもの」という本質を肌感覚で知っていたからかもしれません。でもコンビニに限らず、商売に逃げ道はありませんよね。自分でお客さまの信頼を勝ち得ていかなくちゃ、明日はないんです。
売り場で話す山本さん(左)と社員の中島望さん(40)。
ふだんからコミュニケーションを大事にしている
私が商売の礎にしてきたのが、伊藤雅俊セブン&アイ・ホールディングス名誉会長から教えていただいた「商売人の志4原則」です。お客さまから信頼していただくためには、①情熱②努力③継続④勇気──が必要。ひとつでも欠けると、お客さまは離れてしまう。
この大切さが今はよくわかりますが、若いころは「自分の考えで店をやっていくんだ」と、意気込んでやっていたこともありました。経営陣から教えをいただくうち、それは誤りだと悟ったんです。利己的なリーダーは店というチームを腐らせるだけ。成果が出たのは周りのおかげです、おごってはいけないんです。
そうは言っても、商いが思うようにいかず、悩んだことは何度もありますよ。そんな時は、「(商売を続けていくには)物の考え方が大事だ」とおっしゃった伊藤名誉会長の言葉をよく思い出しました。あるべき物の考え方とは、「前向きでいること」。そして「自然体で対処すること」。
うまくいったとしても、それは自分一人の力ではない。みんなの協力があってこそ、なんですから。
感謝の心を持って、愚直に自分の信じた商いと向き合っていくことが一番大切だと思います。
45年間の歩みは、進化の連続でした。だから今日、2万店以上ものコンビニチェーンに成長したんでしょうね。
初期のオーナーは、家業から転じた商売人が多かったため、電話発注や手動式の精算レジといった日々の業務を、持ち前の“頑張りズム”のようなものでこなしていたんです。その底力はすごかったですよ。
そうしているうち、本部によってPOSシステムが導入されたり、発注等がコンピューター化されたりとシステムが整ってきて、急速にコンビニのしくみができ上がっていきました。加盟店のマンパワーと本部の開発力が相まって、セブン-イレブンは進化できたのだと思います。
印象深かった革新的な事例はたくさんありますが、強いてあげるなら、76年の「共同配送」、2001年の「ATM設置」、07年の「セブンプレミアムの販売スタート」かな。
80年代後半の地下鉄開通以降、都市化が進んだ東京・豊洲の街。人々の暮らしの変化に応じてセブン-イレブンも進化した
特にセブン銀行(旧アイワイバンク銀行)のATMが店に来た時は、売り場が明るくなりましたね。
当時は銀行が午後3時に閉まってしまうので、お困りの方が多かったんです。それがいつでもお金の出し入れができるようになるんですから、「便利になるぞ」と期待が高まりました。
そしてセブンプレミアムは、試食してすぐ「売れる」と思いました。おいしいし、お客さまの間に「ちょっといいものがほしい」というニーズが出ていた時期でしたから、品質で勝負するセブンプレミアムの商品開発姿勢に納得できたんです。
私たちも一生懸命に売りましたよ。コンビニを利用する主婦や高齢の方が増えたきっかけになったと思いますね。
商売に携わっている人は、一度考えてみてほしいんです。自分はなぜ、セブン-イレブンをやっているのか?
いろんな視点があるでしょうが、基本的には経済的に自立して、精神的な充足がほしいと考えますよね。また店は地域に根ざして成り立つものですから、社会に貢献したい気持ちもあるでしょう。
「良き市民でありたい」、私はそう思ってオーナーを続けています。
不思議なもので、人間、経済的に成功したところで心まで満たされません。何か人のため、社会のために役に立ったと思えることが、働くモチベーションになる──ちょっとエラそうなことを言っているように映るかもしれませんが、こう思いだしたのは、還暦を迎えた頃です。
創業以来、がむしゃらに走ってきました。年を重ね、ふと人生を振り返ってみると、家族をはじめ、お客さま、従業員さん、本部の方々、多くの人のおかげだと、改めて感謝の念が湧いてきたんです。
その多くに報いるために、どう生きていけばいいのか──自分にできることは、商いしかないんですね。だから元気な限り、お客さま、地域のために頑張ろうと、今に至っているわけです。
忙しい中でも時間をつくって、自分の歩いてきた道を振り返ってみるといい。必ず気づきがありますよ。
コンビニ業界は今、潮目だと感じています。
「コンビニは変化対応業だ」
私は昔から、本部の経営陣の方々に、そう教わってきました。実際、お客さまの暮らしは変わったし、お店も変わりましたよね。今は、少子高齢化や働き方改革といった環境変化が顕著になっていますから、セブン-イレブンも変わって当然。変わるべきだと思います。
難しいことはありません。従来どおり、店で働く者はどうすればお客さまにご満足いただけるかと考えて、本部は本部のやるべきことをつき詰めていけばいいんです。
加盟店と本部。両者の関係は「夫婦」でありたい。親子でもきょうだいでもなく、他人だからこそ、厳しい試練があった時は根っこにある愛情で、力を合わせて乗り越えられるんです。
昔も今も未来も、そうした二人三脚で進むことで、おのずとイノベーションを起こせるでしょう。
ただ店の運営に限って見れば、これからのリーダーはコミュニケーション能力が一層問われるでしょうね。
デジタル世代の若者は、同世代とのつながりは密でも、先輩に相談したり、教えを請うことに不慣れだなぁと思います。リーダーのほうから従業員さんに話しかけたり、レポートを出してもらったりして、積極的にコミュニケーションを取る必要がありますね。かしこまらず、「僕はこう思うけど、きみはどう思う?」と、気軽に声をかければ、誰でも心を開いてくれますよ。
こうして私は、昔と何ら変わらず、店中心の毎日を送っています。変わったことと言えば、最近、セブン-イレブンの“最初の一歩”を知る者として、当時の様子や先輩方からの教えを後進に伝えるのが自分の役目だと、心に誓ったこと。残りの人生、セブン-イレブンをより良くしていくことに捧げたい。それが夢です。
SHOP DATA
セブン-イレブン豊洲店
住所
東京都江東区豊洲4-6-1
特徴
1974年5月オープン。地域に密着し、創意工夫を忘れない
誠実な商売で今なお成長を続ける