【解説】


 お答えします。人は、そもそも、同じ範疇にあるものを比べる性質を持っています。子どもが2人あれば「姉(兄)と妹(弟)」を比べるでしょう。たとえば「都会に住むか、田舎に住むか」「趣味を優先するか、仕事に重きを置くか」など、自分の生活にしても、あらゆることを比較しながら生きています。「比較」は、人が持っている能力のひとつなのです。

 ただ、ふたつ以上のものを比較して「異なる部分」を見つけるか、それとも「類似する部分」を求めようとするかによって、人の「意識」は大きく変わります。

 古来、東アジアの思想には「比較して異なる部分に注意を向ける」という意識は強くありませんでした。「類化」と呼ばれますが、「類」でものを考えるという「似たところ探し」をすることが基本的な思考としてあったのです。これに対して、ヨーロッパで「異化」と呼ばれる、異なる部分を細分化して区別する思考が近代科学を生み出す原動力になったのでした。

 明治時代以降、近代科学的方法によって物事を考える思考を学んできた我々は、ともすれば、「異化」という方法が「比較」の原則と思いがちですが、「類化」という視点もあるということを忘れないでほしいのです。

 さて、これらのことを念頭に置いて、孔子の弟子である仲由(子路)、賜(子貢)、求(冉求)の3人に対する孔子の評価を見てみたいと思います。

 魯の国の若い大臣であった季康子が、弟子たちの為政者としての適性について孔子に問う場面です。

「仲由は政に従わしむ可き与(=仲由は政治を担当するにふさわしい人物でしょうか?)」。これに対して孔子は言います、「由や果。政に従うに於いてか何か有らん」。訳すと、「子路は果断である。政治の任につくのに、何の難しいことがありましょうか」という意味です。

 同じように、「賜や達」、つまり、子貢は知恵に優れている。「求や芸」、冉求は技芸に優れている。いずれも「政治をするぐらいのことは何でもない」と答えるのです。

 人には、それぞれ得意・不得意があります。「国」を支えているのは、それぞれの異なる資質を持った人たちです。人と人を比較して異なるところを見るよりも、着目すべきなのは「皆が共通して持っている意識」でしょう。つまり、子路にせよ、子貢にせよ、冉求にせよ、皆、孔子にとってみればかわいい自分の弟子であり、自分の弟子であるならば「仁」という基本を深く理解していること、その部分は決してブレないということを、孔子は言っているのです。

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