【Vol.1】時をかける奇跡の桜 人々と心通わせた証を胸に刻んで

 岐阜県高山市に、樹齢450年とも、500年とも言われる2本の老桜「荘川桜」がある。この桜は半世紀以上前からこの地域に暮らしていた人々にとって、当時も今も変わらず、何にも代えがたい存在だ。

 国内の発送電を中心に、海外の発電事業にも取り組む電源開発株式会社(J-POWER)。同社の成り立ちを語る上で、荘川桜は欠かすことのできない1ピースだ。

 1979年に新卒で入社し、現在は広報部広報室の専任部長を務める藤木勇光もまた、中部支社に勤めていた頃に桜の存在を知り、その美しさに心を奪われてきた。藤木は力強く断言する。

「荘川桜にまつわる話は、間違いなく私たちの原点です」

御母衣湖のほとりにしっかりと根を下ろす2本の桜。荘川桜の移植は、水上勉の小説『櫻守』にも重要なエピソードとして登場する(写真提供/電源開発株式会社)
御母衣湖のほとりにしっかりと根を下ろす2本の桜。荘川桜の移植は、水上勉の小説『櫻守』にも重要なエピソードとして登場する(写真提供/電源開発株式会社)

反対する住民の心を動かした
初代総裁・高碕達之助

 荘川桜の物語は戦後すぐにまで遡る。当時、日本は復興のための電力需要が年々伸びる一方で、地域電力会社の資本だけでは発電所の建設が追いつかず、十分な電力を供給できない状態だった。それを解消するため、1952年、国家的な使命を担って設立されたのが現在のJ-POWER、電源開発株式会社だ。

 同社は1956年、「あばれ天竜」と呼ばれ建設不可能とさえ言われた天竜川中流域に、静岡県と愛知県をまたぐ佐久間ダムを完成させたのを手始めに、次々と大規模な水力発電所の建設に着手。その建設予定地の一つが豊富な水資源のある岐阜県大野郡、庄川上流に予定された御母衣ダムだった。しかし、御母衣ダムは計画当初から地域住民の猛烈な反対を受けた。その覚悟は、「御母衣ダム絶対反対期成同盟死守会」という名前からもわかる。水没によって174世帯、約1,200人が移転を余儀なくされるからだ。

 藤木は「当時のことを知らない私には推測しかできないが」と前置きしながら言う。

「ダムによって水没する荘川村と白川村は地域の貴重な穀倉地帯でした。だからこそ、あの反対運動は打算のない、非常に純粋で、暮らしや土地への愛着、思いに根ざしたものでした。多くの主婦の方が前に出て反対されていたことも、いかに生活に密着していたかを物語っていると思います」

 御母衣ダムに限らず、いつの時代も大規模開発にはその土地に暮らす人々の大きな犠牲を伴う。しかし、電力不足の解消は国にとって最重要課題。御母衣ダムの建設は、何があっても実行しなければならなかった。

 足かけ7年にも及ぶ住民の揺るぎない決意と反対運動。最後に人々の心を動かしたのは、電源開発の初代総裁を務めた高碕達之助だった。真摯に住民と向き合い、粘り強く対話を続けた高碕は、水没移転する住民に対し、「今まで以上の幸福を約束する」という、のちに「幸福の覚書」と呼ばれる補償案を提示。次第に住民に受けいれられ、補償交渉は妥結した。

初代総裁・高碕達之助(左)。御母衣ダムは、海外から技術者を招き、最新鋭の技術を投入するなど、近代工学の粋を集めて建設された(右)(写真提供/電源開発株式会社)
初代総裁・高碕達之助(左)。御母衣ダムは、海外から技術者を招き、最新鋭の技術を投入するなど、近代工学の粋を集めて建設された(右)(写真提供/電源開発株式会社)

荘川桜に込めた思いが紡ぐ
J-POWERの“原点”

 その後、水没予定地を見て回った高碕が目を留めたのが、光輪寺の庭にたたずむ大きな老桜だった。のちに高碕はこう振り返っている。

私の脳裡には、この巨樹が、水を満々とたたえた青い湖底に、さみしく揺らいでいる姿が、はっきりと見えたこの桜を救いたいという気持ちが胸の奥のほうから湧き上がってくるのを私は抑えられなかった

 高碕はその場で桜の移植を決意。「桜博士」と呼ばれた笹部新太郎、植木職人の丹羽政光らの協力を得て、世界でも例を見ない大規模な桜の移植を、見事、成功に導いた。

 言うまでもなく、移植は補償の一環に含まれるものではなかった。桜を残そうなど、誰も考えもしなかった。それでも高碕は実行した。

 だからこそ藤木は言う。当時、CSRという言葉はもちろん、そんな考えすらなかった時代にとった高碕の行動は、「間違いなく今のJ-POWERの原点」だと。

「御母衣ダムの運動では立場の違う開発側と地域の人たちが胸を張って和解した。そして、ダム完成後も交流は続き、桜を守る取り組みが今も続いている。高碕が守った桜によって、人と人とが立場を越えてつながれることに、私は特別な思いを抱いています」

土地に暮らす人が語り継ぐ
村の記憶と桜への思い

 御母衣の人々にとって、この桜はどんな存在なのだろうか。

 荘川桜の種子を拾い、苗に育て、希望する人に送り続ける人がいる。高山で旅館「美郷館」を営む道下隆司さんだ。

道下隆司さん(左)。道下さんが自宅の畑で育てている荘川桜の苗木(右)
道下隆司さん(左)。道下さんが自宅の畑で育てている荘川桜の苗木(右)

全国に桜を届ける理由を道下さんは照れるように言う。

「どうしても欲しい言う人がおるから。こんなに長く続けることになるとは思わんかった」

 代々この場所で暮らす道下さんは、御母衣ダム建設にまつわる一部始終を子どもの頃から見続けてきた。当時、子どもだった道下さんに、当時のやりとりを深く理解することはできなかった。だが、年齢を重ねるにつれて、桜への思い、消えゆく村の記憶として桜を残した高碕達之助への感謝の念は募っていった。

「今、水没した村のもので残っているのはあの桜だけです。もし荘川桜がなかったら、御母衣に来ても『ああ、ダムがあるんやなあ』と思うだけでしょう。でも桜の前を通るたびに、御母衣の歴史がよみがえる。時間が経って、当時の記憶は薄くなっていくけど、桜があるから、昔、かつて村があったこと、そこに暮らしていた人のことが語り継がれていく。高碕先生はきっとそういうことをわかってらっしゃったんやと思います」

現在の御母衣ダム
現在の御母衣ダム
静かに満々たる水を貯える御母衣湖
静かに満々たる水を貯える御母衣湖

 CSRという言葉が浸透し、企業価値や投資家をも左右する今。そうした取り組みは、ともすれば企業のブランディングにも見えかねない。しかし、藤木はそうした考えに異を唱える。

「私たちのようにある種、公益性の高い事業は、どこまでがビジネスで、どこまでが“企業の社会的な責任”として担うべきなのかが把握しづらい。だからこそ、これはビジネス、これはCSRと線引きするものではなく、車の両輪のようにあるべきです。私は会社の目的は、経済価値を高めて成長すること。求められる商品やサービスを提供して、社会価値を高めること。暮らしや社会を支えるために環境価値を高めることの三つにあると考えています。J-POWERのCSRは三つのレイヤーに分かれて存在しているのではなく、すべてシームレスにつながっている。高碕がとった行動はまさにそれを実践したものでした」

60年の時を超えて
次世代へとつなぐ架け橋に

 毎年夏、藤木は御母衣で、子どもたちに自然の豊かさと電気の仕組みやダムの仕組みを伝えるワークショップ「エコ×エネ体験プロジェクト」をもう10年以上続けている。

荘川桜の萱敷作業で幹周りの太さを確認する地元の子どもたち。萱は白川郷合掌家屋の葺き替え廃材を活用している(写真提供/電源開発株式会社)
荘川桜の萱敷作業で幹周りの太さを確認する地元の子どもたち。萱は白川郷合掌家屋の葺き替え廃材を活用している(写真提供/電源開発株式会社)

 折に触れて、藤木も荘川桜に足を運ぶ。そんな藤木に荘川桜の思い出を聞いた。

「私も昔、妻と一緒にこの桜に会いに来ました。特別なエピソードがあるわけではありませんが、私にとっても大切な桜です。来年も再来年も、ずっと元気でいてほしい。そんな桜です」

 J-POWERの企業理念の一つに、次の一文がある。

環境との調和をはかり、地域の信頼に生きる

 移植から60年。荘川桜は今年も美しい花をつけた。

藤木勇光(ふじき・ゆうこう)

岩手県釜石市出身。1979年、中央大学法学部卒業。電源開発株式会社入社後、火力発電所や揚水発電所、企画、技術開発、人事労務など幅広い業務を経験。1997年、企画部民営化準備室で企業理念の制定に携わり、その理解・浸透と社員の意識改革のためのCI活動の推進事務局を担当。2006年から現職。エコ×エネ体験プロジェクトのキャップ(責任者)を務める。


大自然の中で学ぶ「エコ×エネ体験ツアー」

大自然を満喫しながら親子で学ぶエコ×エネ体験ツアー水力編@御母衣。世界遺産に登録されている「白川郷」のトヨタ白川郷自然學校に宿泊し、川遊びや森の散策のほか、水車を使った発電実験を通して、「水と森と電気のつながり」を学びます。
詳しくはこちら >

文:奥田高大 写真:西川知里

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