いろいろな価値観に触れ、視野を広げ、そして自分に向き合った大学時代が映像制作のスタート地点に

SOPHIA PEOPLE 上智で考える。社会で描く。 vol.10

文/田端 広英 写真/簗田 郁子 デザイン/REGION 企画・制作/AERA dot. AD セクション

在学中の交換留学をきっかけに、映像制作の道へ進もうと決意

芸術一家に育ち、ひそかにサラリーマン家庭に憧れていた幼少期の家族写真

 映像作家・映画監督として活躍する関根さんは、上智大学で哲学を専攻していた。なぜ哲学だったのか。さらには卒業後、映像制作を志したきっかけは何だったのか。

 文学部哲学科に進学したのは、とにかく考えることが好きだったから。父が造形作家で「芸術一家」だったので、普通のサラリーマン家庭への憧れが強く、一方でやはり何かものづくりをしたいという気持ちもあり。高校生のころはその葛藤に悩んで考えてばかりでした。そんなとき「ものごとを考える“哲学”という学問がある」と知り、勉強してみたいと思うようになりました。
 さらに、私の家はホストファミリーのようなことをやっていて、留学生を中心に、外国籍の人がたくさん出入りしていました。そういう環境の影響なのか、自然にインターナショナルな場所に身を置いて、英語や異なる価値観をしっかり学びたいと思ったのが、上智大学を志望した理由です。だから、私は上智大学だけを受験しました。

 入学後は哲学科で主にカントについて学びましたが、哲学を学問として学んでいくと、どうしても各論に入ってしまいがちです。もっと生きるために大事なことを探してみたいと思うと同時に映像や写真の勉強もしたいと考え、3年生のときに交換留学でマルケット大学(米国ウィスコンシン州)に留学しました。高校時代から映画が好きで大学でもシネマ愛好会に入っており、映像や写真をきちんと学んでみたいという気持ちがありました。
 
 留学先のウィスコンシン州は中西部の非常に保守的な場所で、まだ人種差別も残っていました。想像していた「アメリカ」とのギャップを思い知る一方で、日本人である自分を強く意識することにもなり、「自分は日本人として何ができるか」を考えるようにもなりました。また、その後の人生にとって大きかったのは、留学中に写真のフィルムを扱う勉強ができたことです。フィルムで撮影して印画紙に定着させ、プリントする行為が魔法のようで、アートフォーム(芸術の形/芸術作品)として面白く、フィルムで映像を撮る仕事がしたいと強く思うようになりました。

海外映画祭に短編脚本を応募、世界デビューの切符をつかむ

 関根さんが大学を卒業するころ、すでにMV(ミュージックビデオ)や映画はデジタル化が進んでいたが、CMは主にフィルムで撮影されていた。フィルムを使った仕事をしたい一心で関根さんは映像制作の道へ飛び込み、自らチャンスをつかむ。

 留学先では映像制作の基礎しか学んでいなかったので、とにかく実践的な技術を学ぼうと考え、広告制作には興味がなかったのですが、フィルム撮影を学べるCM制作会社に就職しました。最初に就職したCM制作会社で制作の現場を見て、自分は監督をやりたいのだと強く実感し、1年ほどで辞めて、半年ほど海外を巡った後に2社目のCM制作会社に入社。そこで監督の仕事を学び始めましたが、一人前になるには相当な時間がかかることがわかり、年齢的に焦りを覚えました。「このままじゃ、いけない」と。
 
 そこで、働きはじめて3年目に「アドフェスト」(アジア太平洋広告祭)の脚本部門に応募したのです。幸いなことに賞をいただいて短編映画をつくる機会をもらい、監督デビューができました。当時、海外ではCMやMVを撮ってきた監督がハリウッドで映画監督としても活躍しており、日本の広告と違ってCMやMVがアートフォームとして注目されていました。いつか自分もそういう映像を撮ってみたいという思いが強くあり、そのためには海外で評価されることが大事だと思ったので、海外の映像祭での受賞がすごく良いきっかけになりました。
 
 2018年には初めての長編劇場映画「生きてるだけで、愛。」と、ドキュメンタリー映画「太陽の塔」が公開されました。実は長編映画については2007年ぐらいからチャレンジしていたのですが、企画が立ち上がっては消えてというのを繰り返し、映画制作の難しさを感じていました。そんなとき「生きてるだけで、愛。」のプロデューサーになる人を紹介され、また同じ時期に原作の小説家・本谷有希子さんと知り合うことになり、偶然が重なって歯車が動きだした感覚があり、それならそれに賭けてみよう、と思ったのです。


2018年に公開された岡本太郎の“太陽の塔”の魅力と謎に迫ったドキュメンタリー映画『太陽の塔』は2019年6月にDVDが発売された ??2018 映画『太陽の塔』製作委員会

 長編映画の脚本・監督をやったことで、ものすごく大きな学びがありました。それまでの私は、映像の撮り方は知っていましたが、本当の意味での映画のつくり方はわかっていませんでした。映画というのは監督の思いだけでなく、スタッフやキャスト、作品中のキャラクターなど、さまざまな人の人生と向き合って、深く関わらなければできあがらないものです。人間と向き合う。初めての長編劇場映画制作を通して、そのことの難しさと大切さを知ることができたのは非常によい経験でした。
 
 一方、ドキュメンタリー映画「太陽の塔」では、社会と向き合いました。映画では太陽の塔の歴史だけではなく、太陽の塔がなぜ今残っていて、それが現代人にとってどういう意味があるのかを描きました。実は「3.11」の原発事故が起こったとき、映像作家として活動してきた私は、自分がやってきたことの無責任さを問いただされたような気持ちになったのです。たとえば自分がつくった作品やその原資が、どこかで原発産業と関わっていたかもしれず、経済効果優先の広告制作サイドにいた私は、自分が気づかないところであの事故に加担していたということもありえるのではないか、と。そこで「3.11」後、仲間と「NOddIN(ノディン)」という社会と向き合った映像やアートをつくろうというコミュニティーを始めました。
 
 「太陽の塔」という作品も、その延長線上にあります。当時、岡本太郎は大阪万博のテーマに反発して、あえて会場のど真ん中に万博に抗うメッセージを込めた塔を建てたのですが、新しいオリンピックや万博を迎えようとしている現代の日本も太陽の塔が提示した問題を引きずっているのではないかというのが、このドキュメンタリー映画の主題になっています。
 
 今後は仕事も今まで通りやりつつ、オリジナルの作品制作を進めていきたいと考えています。たとえば、仲間とつくった映像制作会社「NION(ナイオン)」では、LAで活躍しているアーティスト、Kelsey Luのライブイベントを、現代美術作家の杉本博司さんが手がけて話題を集める江之浦測候所で開催しました。そのライブ映像を制作し海外でも上映していく予定です。また、能の歴史の裏側を追ったドキュメンタリー映画の制作も進めています。

日常から離れたときこそ、視野は広がり、ビジョンが熟成される

 大学時代から自分に向き合い、やりたいと思うことに挑戦し、ときには手を伸ばし続けてきたことで、関根さんの「今」があるといえる。そのなかで、大切にし続けていることは。

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 振り返れば、上智大学の環境――帰国生や留学生が多く、いろいろな価値観を持った人がいるキャンパスでの毎日からは、大きな影響を受けたと思います。また、生きるためには死と向き合わなければならないと教えてくれたアルフォンス・デーケン先生の「死生学」の講義には、深く考えさせられました。
 
 日本は視野の狭さでいうと世界で群を抜いている国だと思います。国民が英語を話せなくてもなんとかなってしまう環境も影響しているのではと思いますが、自国の文化や価値観だけでよしとして都合の悪いことにはふたをする現代の風潮は、時に異様に思えることがあります。これからの時代、国家間の軋轢や地球環境の危機に瀕しているなかで、「自分たちだけが幸せならいい」ではもう続かない。世界市民のひとりとしての視野や経験が非常に大切な時代だと思います。
 
 そういう意味で、学生時代から今まで大事にしているのは「旅」です。学生時代にバックパッカーとして海外を旅したことや海外の大学に留学したこと、また上智大学での学生生活も含めて、いろいろな価値観を持つ人たちと触れ合うことで、自分になかった視点を学ぶことができました。その経験は自分の視野を広げてくれただけでなく、自分がそれまで持っていたビジョンを深く熟成する機会にもなりました。私にとっての上智大学は、帰ってくればいつでも仲間に会える「第二の家」のような場所でしたが、学生時代には、居心地の良い日常からあえて離れて挑戦的な旅に出ることも、強くお勧めしたいですね。

提供:上智大学