文/田端 広英 写真/簗田 郁子 デザイン/REGION 企画・制作/AERA dot. AD セクション
在学中は学業のかたわらラクロスに熱中したという曽山さん。上智大学とはどんな場所だったのだろうか。
曽山さんが卒論で取り上げたのは、キング牧師の演説。「聴く人の映像イメージをふくらませる言葉の選び方など、いまの仕事のプレゼンにも生きています」
上智大学での4年間をひとことで表すなら、「人生に"彩り"を与えてくれた場所」です。"彩り"は、多様性と言い換えてもいいでしょう。いろいろな人間、いろいろなカルチャーと出会い、それまで知らなかったことを知り、視野が大きく広がった4年間でした。もちろんラクロス部もそうした経験をした場所ですが、大学4年間、ラクロスだけをやっていたわけではありません。よく冗談で「上智大学ラクロス部に入学したようなもの」と言っているので誤解されがちなのですが、母校の名誉のためにも、少し大学での学びについてお話ししたいと思います。
私が上智大学を選んだのは、通っていた予備校のチューターから「英語を学ぶなら上智大学しかない」と薦められたからです。上智大学が「エスカレーター式」ではなく、入学後にゼロから人間関係をつくれる環境だったことも大きなポイントでした。
入学してすぐの半年間は、週5日すべての授業に欠かさず出席しました。英文学科の授業は出席が厳しいということもありましたが、ラクロスに熱中するかたわら、「これを学んでみたい」と思った授業は、2年以降も欠かさず出席したのです。印象に残っているのは、必修だった「キリスト教人間学」や、英文学科の授業を通じて「人間」について学んだことです。たとえばシェイクスピアやイプセンを読んでいると、どろどろした人間関係や人間の二面性に驚かされます。かくも人間というものは泥臭く、弱い生き物なのか、と。このときの学びは、現在の「人事」という仕事にも生きています。人間は決して表面だけ見ても評価できない存在なのですね。
そもそも大学受験を決めたとき、私は英語教師を目指していました。きっかけは高校2年生で出会った英語の先生です。その先生のおかげで私は英語が好きになり、英語の成績も一気に上がりました。その経験から「教師って素敵な職業だなあ」と憧れたわけです。でも、入学していろいろ学ぶなかで英語教師は目標ではなくなりました。英語を学んだおかげで、新しい気づきや目標を手にしたからです。
たとえば、私は中学3年生からストリートダンスをやっていたので、ヒップホップカルチャーに関心をもちました。その中でも韻を踏むことを共通項としてもつラップミュージックとスピーチに注目し、卒業論文でマーチン・ルーサー・キング牧師の演説を取り上げました。そのキング牧師の演説で特に感心したのは、ビジュアライズがうまいことでした。聴衆が頭の中に映像を浮かべやすい演説をすることで、言葉には人を引っ張る力が備わるのです。これは今でもプレゼンテーションのやり方などで、意識するようにしています。
勉強をしながら、ラクロスでもさまざまなことを経験しました。ラクロスを始めたのは、先輩が熱心に勧誘してくれたから。先輩たちのアメリカ西海岸を感じさせるスタイルに憧れたのです。あとは、当時ラクロスが日本に紹介されたばかりの新しいスポーツだったから。勧誘ビラに「日本代表になれる!」と書いてあったほど、ゼロから戦えるスポーツだったことは魅力でした。実際、大学のチームづくりだけでなく、3年生のときには学生連盟の広報委員長を任され、130校ぐらいの大学を束ねて広報活動をやったり、新しいオープン大会を一から立ち上げたりと、貴重な経験を積むことができました。
上智大学卒業後は伊勢丹に入社するが、1年で退社。サイバーエージェントに転職して人事を担当するまで、どんな気持ちの変化があったのだろうか。
eコマースに携わったことで、「ゼロから戦える場所を見つけてしまった」
学生時代、ラクロス部のキャプテンとして「強い組織」をつくることができなかったので、企業では「強い組織」づくりに挑戦したいと考えていました。そのため就職活動では業界で志望をしぼらず、各業界のトップ企業を回りました。そのなかで惹かれたのが、伊勢丹の「ファッションで人を動かす」というコンセプトでした。でも、結果的には1年で退社することに。伊勢丹でeコマースの立ち上げに携わったことが、きっかけでした。
今と違ってまだダイヤルアップ回線の時代でしたが、有名ブランドの大きなサイズをeコマースで展開したところ、これがものすごく売れたのです。ラクロスに続き、またしても「ゼロから戦える場所を見つけてしまった」わけです。ネットはこれから伸びると確信した私は、伊勢丹を退職してサイバーエージェントに転職しました。当時はまだヤフーや楽天が注目され始めたころで、サイバーエージェントは社員20人の小さな会社でした。まわりの人には驚かれましたが、私自身は「成長していく業界のなかで、会社も自分も伸びていける。思い切ってやろう!」と考えていました。たとえ失敗しても納得できるチャレンジだったのです。
今、私は人事部門の責任者を務めていますが、入社後6年間はずっと営業畑で、30歳を前に営業部門の責任者になりました。そんなとき社長(藤田晋氏)から「人事をやってくれ」と言われたのです。当時、社員の定着率を上げるため、人事を強化するために設立した人事本部の責任者になってほしいというものでした。それまで人事の経験はありませんでしたが、営業部門の責任者のときに社員育成プログラムをつくったことがありました。「戦力化チェックリスト」に基づいてチェック項目をひとつずつクリアしていけば、一人前の営業担当に成長できるというプログラムです。このプログラムの導入によって、9カ月から1年かかっていた営業担当の育成が3カ月に短縮されました。こうした経験があり、人事という新しい場所を提示されたとき、私は「ぜひやります!」と二つ返事で引き受けたのです。
曽山さんは「新しい世界に飛び込んで、ゼロから何かをつくりあげる」というモチベーションがとても強い。いつごろから、そういった意識をもつようになったのだろう。
最近の曽山さんの趣味は、ボルダリング。サイバーエージェント内にはボルダリング部もある
中学3年生で始めたダンスの経験が大きいと思います。小児喘息があったせいで激しい運動ができなかった私は、子どものころは絵を描いたり工作をしたりするのが好きでした。でも、中学3年のときに友だちから「ダンスをやってみないか?」と誘われたのです。ちょうど「元気が出るテレビ」というテレビ番組で「ダンス甲子園」という企画が始まったころ。かっこよくて面白そうだし、まだやっている人も少ないので、「自分にも活躍できるチャンスがあるのではないか」と思い、始めました。高校時代にはダンスの練習に明け暮れ、チームで「ダンス甲子園」に出場して全国3位になりました。このときの成功体験――「努力をすれば結果は出る」という経験や、仲間同士で支え合うことの大切さを知ったことが、人生の大きな分岐点になったと思います。
私は、「エスカレーター式」ではないという理由もあって、上智大学を選びました。それは既存のコミュニティーがない環境、つまり、やっぱりゼロから戦える場所です。結果的に、学部でも部活でも多様な人たちと出会うことができました。特にラクロス部の活動では、日本にやってきた交換留学生の部員と接したり、アメリカの大学で行われるサマーキャンプに参加したりすることによって、より多様な価値観に接することができました。
こうして振り返ってみると、自分が高校時代や大学時代に想像していた未来をはるかに上回る人生を、いま私は送っています。たとえば就職するとき、私は「30歳でマネージャーになる」という目標をもっていました。ところが、サイバーエージェントでは半年でマネージャーになってしまった。学生時代の私には、そんな未来は想像できていなかった。
よく「人の成長角度は視点の高さで決まる」といいます。角度が大きい、つまり視点が高いほど、速く大きく成長する。想像できない目標など、人は達成できませんからね。事実、「社長になりたい」と漠然と考えている人よりも、「社長になる」と公言している人のほうが、実際に社長になる確率は高いといわれています。理由は簡単です。「社長になる」と公言している人には、まわりの人がそれにふさわしい課題や期待を与えてくれるからです。
今の学生に、私からひとつリクエストがあります。卒業後はすごく伸びそうな業界や企業、分野に、ぜひ飛び込んでください。そこで視点を高くもって目標を公言し、努力し続ければ、必ず大きなチャンスが訪れます。さらにその先には、きっと自分が想像もしなかったような大きな成長の機会が待っているはずです。
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提供:上智大学