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イノベー

ション

ラグビー

野城智也。

Reportage

あらゆる学びを提供する東京都市大学の
先生たちにまつわるモノやコトをキーワードに、
個性を掘り下げる「ヒトモノリサーチ」。
今回は2024年1月に新学長に就任したばかりの
野城智也氏にインタビュー。
東京都市大学の新たなリーダーは、
大切にしてきたラグビーと絡めながら、
イノベーションの新潮流について熱く語った。

東京都市大学 ヒトモノリサーチ Tokyo City University 8

文/大場宏明 ウェブデザイン/ヨネダ商店
アートディレクション/鍋田哲平 写真/東京都市大学提供
制作/朝日新聞出版メディアプロデュース部ブランドスタジオ
企画/AERA dot. ADセクション

野城智也

恩返しの
チャンスだと
思って
学長になった

 2024年1月、東京都市大学総合研究所の野城智也特任教授が第11代学長に就任した。資源・エネルギー使用の抑制や長寿化を重視した「サステナブル建築」や、革新的なコトの創造から社会実装、社会変革までをカバーする「イノベーション・マネジメント」のスペシャリストである。

「お話をいただいたとき、迷うことなく引き受けました。恩返しのチャンスだと思って」

 ⼯学博⼠の学位を取得し、建設省(現国⼟交通省)の研究員を経て、1991年に助教授として最初に⼤学教員になったのが武蔵⼯業⼤学(現・東京都市⼤学)だったという。

 その後7年間、武蔵⼯業⼤学で教育・研究に没頭したことが「私の礎となっています」と野城学⻑は語る。

東京都市大学には、もとから並々ならぬ恩を感じていたそうだ。

東京都市大学には、もとから並々ならぬ恩を感じていたそうだ。

選手が
いいプレーを
するように
持っていく

 これからは大学教授ではなく、学長としての生活を送る。教授と学長の仕事はどう違うのだろう。

「サッカーでいえば、ベンチにいる監督とグラウンドでプレーする選手くらいの違いがあります。学長はグラウンドの外にいて、選手がいいプレーをするように持っていくのが役目です」

 身を乗り出して説明する野城学長。しっかりした体格と厚めの胸板はスポーツマンのそれだ。

 野城学長は大学時代にラグビーと出会った。選手として汗を流すだけでなく、公式資格を持つレフェリーとして大学や社会人チームの試合をさばいた経験もある。

「ラグビーは世界中の人との縁を広げてくれました」と語るが、きっかけは意外なものだった。

「中学と高校は陸上競技に熱中し、大学でも陸上部に入部を希望していました。でも、高校時代の私の記録を聞いた陸上部のキャプテンは『砲丸投げならちょっと使えるかな?』と、あっさりした反応で……」

 がっかりして陸上部を背に歩き出すと、目の前でラグビーの練習が行われていた。級友が一足先に入っていたこともあり、LBRCというラグビー同好会に飛び込んだ。

陸上部時代の野城さん(高校2年生頃)

陸上部時代の野城さん(高校2年生頃)。
photo provided by Tomonari Yashiro

真ん中の水色の縞(しま)のユニフォームを着ているのが、若き日の野城学長

真ん中の水色の縞(しま)のユニフォームを着ているのが、若き日の野城学長。
photo provided by Tomonari Yashiro

大学同好会OBチームのユニフォーム

大学同好会OBチームのユニフォームは大事にとってある。背番号はCTB(センター)ポジションの13番だった。

罪滅ぼしに
始めた
ボランティアの
レフェリー

 野城学長によれば、陸上とラグビーは対照的なスポーツだという。

「陸上は個人が瞬間にピークを持ってくる競技。ラグビーはチームで長時間戦う競技だが、あるとき突然、一瞬で状況が変わるという特徴もある。学生時代にのめり込みました」

 普段、戦う相手は東京六大学のラグビー同好会だった。体育会所属チームもあれば、大阪・花園の全国高校大会経験者のいるチームも珍しくない。

「われわれの大半は大学でラグビーを始めた素人集団。どうすれば他大学の強いチームに勝てるか、いつも考えていました。その工夫や努力がチームメートを成長させていきました」

 大学4年生のときの東京六大学リーグ戦。初優勝がうっすら見えてきた。味方チームがトライした後の「コンバージョンキック」(2点獲得のチャンス)に、若き日の野城学長は臨んだ。

 だが失敗。1点差で負け、最終成績は3位に終わった。

「自分のせいで優勝を逃したと思い、罪滅ぼしにレフェリーを始めました(大学院入学後)。公認資格を取り、無報酬のボランティアでホイッスルを吹いていました。

 週末はあちこちの草ラグビー試合に出かけました。試合日時や場所はラグビー協会からハガキで通知される形で、断りづらい仕組みになっているんですよ(笑)」

引退時の記念写真

引退時の記念写真。胴上げが青春。
photo provided by Tomonari Yashiro

「人を育てる」
国際化に向けた
在外研究制度で
英国へ

 ラグビーのレフェリー経験は東京都市大学への道をつくってくれた。

「武蔵工業大学(現・東京都市大学)に就職する際、履歴書の資格欄に『一級建築士』と書いたのですが、それだけでは寂しく思い、『関東ラグビーフットボール協会B級レフリー』で余白を埋めました。

 私の履歴書を教授会で目にしたのが体育の古賀浩二郎先生。古賀先生から、すぐに当時のラグビー部の渡辺一郎監督に連絡がいったようです。本学の助教授になってからも、練習試合のレフェリーをさせてもらうようになりました」

野城学長

「人との出会いが、社会人になってからもラグビーに関わる道をつくってくれた面もあります」と野城学長。

 ところで、東京都市大学は奨学金制度や在外研究(サバティカル)制度が充実していることでも知られる。

 野城学長は、武蔵工業大学での助教授着任から3年後、在外研究制度で英国へ渡った。1年滞在し、人脈と視野を世界に広げた。

「特別なノルマはなし、滞在費用も出て、給料をもらいながら海外で学べる––––。最高でした。当時は小規模の単科大学でしたが、助成対象は年4人程度。手を挙げれば高確率で選ばれたのです」

 海外派遣の倍率が高いといわれる、大規模の国公立大学とは大違いである。今回、学長を引き受けるとき、野城学長の胸中に「恩返し」の気持ちが湧き上がってきた理由の一つが、この英国滞在だという。

野城学長

AI(人工知能)が発達し、対面以外のコミュニケーションツールが全盛の今でも「face to face」を大切にしている。

本を読むより
多くの人に
会うことを
優先した

「英国の受け入れ先大学のランコ・ボン先生は『本は帰国してからいくらでも読めるから、英国滞在中は、できるだけ多くの人に会うように』と。さまざまな人をご紹介くださいました。当時は草創期だった、サステナブル建築に関する国際コミュニティーに入ることもできました。

 イノベーション・マネジメントを学ぶきっかけをくださったデビッド・ギャン先生(現・オックスフォード大学副学長)は、有名クラブでプレーしていたラガーマンでした。ここでもラグビーが縁をつないでくれました。

 ギャン先生や、その兄貴分のグロアク先生は、私がへっぽこプレーヤーだったことは問わず、ラグビーをやっていたというだけで信頼してくれました。ラグビーが私の研究基盤をつくってくれたようなものです(笑)」

野城学長

野城学長は海外経験が豊富。これは1985年、JICA(ジャイカ=独立行政法人国際協力機構/当時は国際協力事業団)の技術移転プロジェクトでインドネシアのバンドンで働いていた際の写真。
photo provided by Tomonari Yashiro

「缶蹴りでは
ずっと鬼」
ふんわりした
子だった

 野城学長は、どんな少年時代を過ごしたのだろう。

「缶蹴りをやると、ずっと鬼ばかりしているような……要領が悪く、ふんわりした子どもでした。

 両親は『いじり壊さないように』と言って過保護にせず、成長をゆっくり見守ってくれたようです。

 勉強はしっかりやりました。小学生高学年の頃から毎日1~2時間の予習・復習を欠かしませんでしたね。勉強の習慣をつけてくれたのは、小学校の福並武丸先生です。いい先生に出会えて運がよかったです」

「集中すると、ほかのことが見えなくなるタイプ」だという。塾に通うこともなく中学、高校、大学とスムーズに進んでいったのは、持ち前の集中力のたまものと思われる。

4歳頃の野城学長

4歳頃。小柄でおとなしそうに見える。
photo provided by Tomonari Yashiro

 軽い気持ちで好きな食べ物を聞いたら、野城学長は考え込んでしまった。

「カレーライスが好きなのですが、それでは母に申し訳ないなぁ、と。カレーはもちろん、本当にいろいろなものを作ってくれました。遠足に持っていった弁当を見た先生が『すごいね』って言うくらい」

 もしかして野城学長は、“いいとこの子”?

「いやいや、食材が豪華なわけではなくて。たとえば野菜なら、ホウレンソウをノリで巻いて程よくしょうゆで味付けするなど、丁寧な食事作りをしてくれていたのです」

 今でこそ立派な体格だが、未熟児で生まれたという。

「母は私においしい料理をいっぱい食べさせ、早く大きくしようとしていたのでしょうね。おかげで小学生の頃からずっと、背は高いほうでした」

小学3年生頃の野城学長

小学3年生頃。4歳頃の写真に比べて快活かつ大柄に見えるのは、母の手料理のおかげだろう。
photo provided by Tomonari Yashiro

競技規則は
たった21カ条
本当に大事な
原則だけ

 最後に「大学の運営について、ラグビーを例に話してほしい」とお願いした。

「ラグビーの競技規則はたった21カ条です。分厚い冊子があるスポーツとは違い、存在するのは『本当に大事な原則』だけ。

 私も、細かくうるさいことを言うつもりはありません。基本理念を明示したうえで、まずはやってみてもらい、そこから学びを得る形が理想です。

 個々の人間が萎縮せず、のびのび動けることで、結果的にチーム全体の実力が上がっていけばいいと考えます」

教え子たちが還暦祝いをしてくれたときの写真

教え子たちが還暦祝いをしてくれたときの写真。人を縛らないから、人から好かれる。野城学長に取材すると、そう感じる。
Photo by Yuichi Higurashi

日本でも
グーグルや
アップルが
生まれたはず

 東京都市大学の卒業生は、確かな知識と技術に裏付けされた実力が高く評価され、後輩の就職機会にもつながっている。

 野城学長は「多くの先輩が築き上げてきた信頼を引き継いでいきます」と前置きして、「でも、社会はとても激しく変化しています」と現状を指摘した。

 日本のイノベーションは、海外に比べ苦戦している。

「たとえばスマホ。携帯電話と呼ばれ、通信速度やデータ容量ばかりが考えられてきました。しかし、携帯『電話』ではなく『サービス端末』だと早くに気づいていれば、日本でもグーグルやアップルが生まれていたはずです」

 今と昔ではイノベーションの生まれ方が異なる。

「昔は人里離れたところにある大学や研究所で偉大な発明をして、それがうまくいけば世の中を塗り替えるというモデルが主流でした。しかし、最近の街づくりとイノベーションの様相は違います。試しにつくってみて、使いながら修正し、継続的に革新していく流れです」

 何か不足があれば、その分野を得意とする人が加わる。どんどん人を集め、人を巻き込んで進んでいくやり方。

みんなで
みこしを担ぐ
得意技を
見つけてほしい

「そのための舞台として東京都市大学は今後、世田谷・横浜だけでなく渋谷にも拠点をつくろうとしています」

 自分で学び、課題を定義し、さまざまな人と協働しながら何かを想像していく能力を高めていく。

 双方向の教育機会や社会の多様なステークホルダー(利害関係者)と接する機会を増やしていく意義を、野城学長は強調した。

「誤解を恐れずに言えば、お祭りさながらに、みんなでおみこしを担いでいくイメージ。学生諸君には、自分の得意技を見つけて磨いて、どんどんおみこしの担ぎ手になってほしいと考えています」

野城学長

Postscript

 常に柔らかな表情、笑うとなくなる目が、失礼ながら愛らしい雰囲気……それなのに立ち上がると背筋ピシッ、確かな筋肉を感じる体格。「ラグビーがつないでくれた縁でここまでやってこられた」と話されますが、人には語ることのないご本人の地道な努力があればこそ、なはずです。「すてきな学長の見本」のような方でした。

Profile of Hirotaka Takahashi

野城智也
東京都市大学 学長
1957年生まれ。1980年、東京大学工学部建築学科卒業。1985年、東京大学工学系研究科建築学博士課程修了(工学博士)。同年4月より建設省建築研究所第一研究部研究員。1986年、同省住宅局住宅建設課係長。1987年、同省建築研究所第五研究部研究員。1990年、同省建築研究所第四研究部主任研究員。1991年、武蔵工業大学(現東京都市大学)建築学科助教授。1998年、東京大学大学院工学系研究科助教授。1999年、同学生産技術研究所助教授。2001年、同学生産技術研究所教授。2007年、同学生産技術研究所副所長。2009年、同学生産技術研究所所長。2013年、同学副学長。2018年、同学価値創造デザイン人材育成研究機構機構長。2023年、東京都市大学総合研究所特任教授、高知県公立大学法人高知工科大学教授。2024年1月、東京都市大学学長(現任)。専門分野はサステナブル建築、イノベーション・マネジメント
野城智也

※この記事の内容、事実関係は2024年3月現在のものです(AERAdot.掲載日…2024年3月25日)。
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提供:東京都市大学