77年秋、平和台球場で行われた入団テストには、約80人の中学生が挑戦。リトルリーグで活躍していた吉田大介(福岡市・志賀中)、中学では陸上部所属の太田浩喜(同・花畑中)の2人が合格し、練習生になった。

 背番号は投手志望の吉田が「82」、内野手志望の太田が「83」。翌78年春、修猷館高定時制に進学し、昼間は野球、夜は学校の生活を続けながら、卒業後の正式契約を目指した。

 ところが、78年10月、クラウンは西武に身売りし、本拠地も所沢に。「一緒に連れていってもらえるだろうか?」と不安に駆られた2人だったが、12月に西武の練習生として継続が決まり、所沢高定時制に転校。練習生は2軍戦にも出場できないため、ふだんはひたすら練習に励み、紅白戦や練習試合など限られた出場機会で何とかアピールしようと奮闘した。

 だが、12球団きっての大型補強で毎年有望選手が次々に入団してくるなか、81年秋に2人揃って戦力外通告を受け、19歳で引退。くしくも彼らと同年代の伊東勤も練習生出身だが、西武の球団草創期に中学からプロ入りした2人の練習生がいた事実は、あまり知られていない。(文・久保田龍雄)

久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

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久保田龍雄/1960年生まれ。東京都出身。中央大学文学部卒業後、地方紙の記者を経て独立。プロアマ問わず野球を中心に執筆活動を展開している。きめの細かいデータと史実に基づいた考察には定評がある。

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