プロ入りの年齢は22歳ながら、最終学歴が中学だったのは、72年にドラフト外でロッテ入りした上森合直幸だ。

 岩手県雫石町の西山中卒業後、集団就職で上京。日特金属の機械工として働きながら、会社の軟式チームでプレーしていた。71年秋、ロッテのテストに合格。契約金ゼロ、年俸60万円で、プロ入りの夢を叶えた。

 5年間在籍した上森合は、1軍登板はなかったが、金田正一監督時代の74年に打撃投手としてリーグトップのチーム打率.264の強力打線を支え、日本一に貢献した。

 上森合同様、最終学歴が中卒で、就職後にプロ入りしたのが、稲垣秀次だ。

 調布三中時代は調布リトルに所属し、荒木大輔(ヤクルト‐横浜)と同期だった。

 卒業後は都内の定時制高校に進学も、1年で中退し、田中土質基礎研究所に勤めながら、同社の軟式チームで投手兼三塁手としてプレー。バッティングセンターで快打を連発する姿が経営者の目に留まったことがきっかけで、83年、18歳で巨人にテスト入団。当時では珍しい背番号99をつけた。

 入団後は、王貞治の一本足打法を完成させた荒川博氏の荒川道場に駒田徳広とともに入門。駒田の撤退後も、ただ一人指導を受けつづけ、「教えることはすべて教えた」と言われるほど、打撃の奥義を極めた。

 87年のグアムキャンプでは、フリー打撃で14本の柵越えを放ち、「明日の新聞の1面はこれで決まりだな」と王監督を喜ばせた。本人も「荒川さんの教えで大成した1番目が榎本(喜八)さん、そして、2番目が王さん、その後を密かに狙っているんです」(週刊ベースボール87年2月23日号)と大きな目標を掲げたが、1軍出場をはたせないまま、89年限りで退団した。

 テスト入団した中学生を自前で育てる「中学生プロ養成システム」を導入したのが、根本陸夫監督時代のクラウンだ。

 スカウト出身の青木一三球団専務のアイデアで、高校卒業程度の年齢までにチームの戦力になれるよう目指す新たな試みだった。経営難が続き、即戦力のドラフト候補を思うように獲得できない同球団ならではの“先物買い戦略”でもあった。

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昼は野球、夜は学校… 卒業後の正式契約を目指した練習生