東京に戻ってヂーゼル自動車に復職したんですが、いざ野球ができる体になったと思うと、憧れだった六大学で野球をやりたくなりましてね。ところがヂーゼルは18年に職業野球が解散した時、戦前のイーグルスの流れをくむ大和軍を苅田久徳監督以下、引き受けていたんです。その苅田さんも復員してきて野球部を再建することになった。で、川崎コロムビアとの練習試合1試合だけ、僕が投げることになったんです。その試合の審判にやって来たのが、なんと天知さんでした。その第一声が「スギ、お前、野球をやれる身体になったのか」でした。

 天知さんとの再会です。

 進学した明治では1年の秋のシーズンから4、5番を打って一塁手。投手も兼ねていた2年の秋になると、天知さんが明治の技術顧問になってやってきた。3度目の出会いです。

 当時の大学野球部はシーズンオフになると「食糧稼ぎ」のために地方に遠征したんです。同時に有望選手のスカウトも兼ねた技術指導もしましてね。そんな折に天知さんが、「ナックルと同じ性質の、無回転で落ちるボールがある」と。大正12(23)年にアメリカ遠征に行った時に知って、明治の投手に練習させたけど誰も投げられなかったと。僕ならば体も手も大きいから放れるんじゃないかと言う。

 フォークボールを教わったんです。

――杉下さんは大学時代、公式戦で1球だけフォークボールを投げた。バットの根っこに当たってボテボテのゴロになり内野安打。「縁起が悪い」と封印してしまった。一方、天知はプロ野球中日の技術顧問に就任し、24年からは監督として指揮を執ることになっていた。

 24年に明大専門部を修了し、学部に行こうか「いすゞ」へ帰ろうか迷っていたんです。天知さんに相談に行ったら遠征で不在だったんですが、翌日の早朝、遠征先から戻ったその足で我が家の戸を叩いてくれた。

 僕は「中日と契約するんじゃない、天知俊一と契約するんだ」と言って中日に入団したんです。まだ、六大学野球の人気がいちばんで次が都市対抗野球、プロはその後という時代です。天知さんには「プロ野球で10年やれば、大学出が定年までに稼ぎ出すのと同額が得られる。そのつもりでやってくれ」と言われました。

週刊朝日  2015年12月4日号より抜粋