プロ野球オールスターゲームに10回も出場したことがある西武元監督の東尾修氏。球宴の本当の楽しみに意外なものを挙げた。

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 ワールドカップも終わって、またプロ野球が賑やかになるな。まもなくシーズンは折り返し。まずは7月18、19日のオールスターだ。盛り上がってほしいよね。

 球宴にはいろんな思い出がある。現役時代はエース同士の意地のぶつかり合い、そして絶対にセ・リーグに負けたくないという思いで戦っていた。

 私が牽制で走者を刺して試合を終わらせた1984年の甲子園での第2戦。この年限りで引退する田淵幸一さん(当時は西武)が同じベンチにいた。実は、9回に私に打席が回ることもあって、監督にも聞こえる大きな声で「田淵さん、僕の代打で行ってくださいよ」と話したんだ。でも、当時の広岡達朗監督(西武)は耳を傾けなかったな。私は、阪神に10年間も在籍した田淵さんを甲子園のファンは見たいだろうと思った。でも、監督は勝利にこだわったのだろう。8回終了時点で1点リード。私がそのまま打席に立った。田淵さんは涙目で、寂しそうな顔をしていた。

 今でこそ、球宴の勝敗はドラフト指名順にかかわってくる。当時はそれがなかったけれど、お祭りムードは試合になれば消えていた。

 新人の時などは、出場しても大先輩たちと話すことすら、おこがましかった。先輩の技術を参考にしたいと思っても、直接聞くのは無理。盗み見するくらいしかできなかったな。その中でスター選手の姿、背中の大きさを自然と見ていた。球宴のステータスの高さも、そう感じさせる要因だったな。何回も出ないと認められないと思ったし、そのおかげで現役で10回も出場できたと思っている。

 
 本当の楽しみは移動日にあった。当時は3試合制で移動日が1日あって、自由行動。チームメートとゴルフをしたり、食事に出かけたよな。京都で知人に頼んで、食事に舞妓さんをセッティングしてもらって楽しんだこともあったよ。まだ若かった渡辺久信、工藤公康を連れていってね。ゴルフをシーズン中にやったのもこの1日だけ。本当に貴重な時間だった。だって、球宴に出ない西武の選手は、休みなく一日中練習していたから。それも球宴に出るモチベーションになっていたことは間違いないよ。

 西武の監督になって1年目の95年には球宴の監督を務めた。その時のコーチが当時オリックス監督の仰木彬さん。当時は「仰木マジック」と言われて、4番をコロコロ代える打線の組み替えがあたっていたから、コーチ室で聞いてみたんだ。でも、納得する答えがない。試合中にメモして話題になっていた仰木ノートも少しのぞいたけど、理解はできなかった。策士だから、はぐらかされたかもしれないけどね。でも、監督たちはそんな腹の探り合いをしていたものだよ。

 今年はセ・リーグで中日の谷繁元信兼任監督が選手として選出された。監督が4人そろうことになる。昔はエース投手に対し、他球団の捕手がマスクをかぶるだけで情報収集とか言われたものだ。今はきな臭い話は表に出ないが、選手起用の妙とかも本来は面白い。監督の仕掛けも注目したい。

 私は今でも72年に最初に出場した時の川崎球場の独特のにおいや、ラーメンの味まで覚えている。球宴出場はそれだけ大きなことだった。夢舞台に出られる喜びを、選手は前面に出してプレーしてほしい。

週刊朝日  2014年7月25日号

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東尾修

東尾修

東尾修(ひがしお・おさむ)/1950年生まれ。69年に西鉄ライオンズに入団し、西武時代までライオンズのエースとして活躍。通算251勝247敗23セーブ。与死球165は歴代最多。西武監督時代(95~2001年)に2度リーグ優勝。

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