今年は「高校野球100年」。戦後、米軍がDDT(農薬や殺虫剤として使われる有機塩素化合物。現在は国内での使用禁止)を撒いても、観客は熱狂していたその高校野球の歴史を振り返る。
高校野球の発祥、全国中等学校優勝野球大会が始まったのは1915(大正4)年。朝日新聞の田村木国(もくこく)記者によれば、企画を思いついて名物記者の長谷川如是閑(にょぜかん)、村山龍平社長に相談、30分ほどで大会開催が決まった。昔の会社は話が早い。
大阪・豊中グラウンドで始まった1回大会。観客席ではすでにカチワリ氷(5銭)が売られていた。決勝は延長13回に京都二中がサヨナラ勝ち。敗れた秋田中は「京都軍バンザイ」をとなえ、観衆を感動させる。翌日のパレードは市民があふれ、京都の四条烏丸の交差点では動きがとれず、電車も止まった。
3回大会からは鳴尾球場、10回大会からは甲子園球場へ。満員札止めが当たり前で、カレーライス(30銭)より立ち見客用のビール箱や石油缶(40銭)のほうが高かった。ツタの生えた外壁をロッククライミングで入ろうとする者までいたぐらい。
しかし、隆盛期を迎えた甲子園の夏に戦争の影が忍び寄る。
24回大会(38年)にはスコアボードに「堅忍持久」「心身鍛錬」、開会式では愛国行進曲と進軍ラッパ。27回大会(41年)はついに中止となっている。
戦後最初の28回大会(46年)。米軍機が観客席に“祝福”のDDTをまいても平気、平気。大阪・浪華商、エース平古場の活躍に熱狂した。あれからさらに70年。
とにかく、ずっとみんな野球が大好きだったのである。
※週刊朝日 2015年8月7日号