たとえば、ある特定の国の人の犯罪者の数を出し、だから××人は嫌いだという人がいる。
でも、その国は日本より大きく、人口も多い。それなら、犯罪者の数も、悪い人の数も、善人の数だって多くなるに違いない。
日本の外国人の犯罪数も、どこの国の人が多いかという前提から考えねばならない。よって、××人は最低だ、とはならない。
北原さんのコラムであるが、特殊な例を持ってきて、男女の話をするのはどうかと思う。ネガティブな意味で、女は、男は、××人はと、一括(くく)りにジャッジされることにより、世の中のいらない分断を煽(あお)っていることはわかっているのか。そして、ここが肝心であるが、私は北原さんを批判しているが、決して女性を攻撃しているわけでも、フェミニストを攻撃しているわけでもない。
コラム全体を読み、北原さんはColaboを庇(かば)おうとしている、ということはわかる。でも、そこに対する世の疑問は、公金の使用のあり方や、困難女性支援法のスキーム、保護した女の子たちの自立はどうなっているのかということだ。実際、女性蔑視で攻撃してくる男たちというのは何割くらいいるのか?
「フェミニスト」や「女」を盾として使っているのは、誰だ?
室井佑月(むろい・ゆづき)/作家。1970年、青森県生まれ。「小説新潮」誌の「読者による性の小説」に入選し作家デビュー。テレビ・コメンテーターとしても活躍。「しがみつく女」をまとめた「この国は、変われないの?」(新日本出版社)が発売中
※週刊朝日 2023年2月24日号