松本智津夫被告判決公判の傍聴券を求めて集まった人たち=27日午前8時、東京・日比谷公園で、本社ヘリから (c)朝日新聞社
松本智津夫被告判決公判の傍聴券を求めて集まった人たち=27日午前8時、東京・日比谷公園で、本社ヘリから (c)朝日新聞社
第二上九・第六サティアンに捜索に入る捜査員 (c)朝日新聞社
第二上九・第六サティアンに捜索に入る捜査員 (c)朝日新聞社

 6日、法務省が発表した、オウム真理教元代表の松本智津夫(麻原彰晃)死刑囚ら7人の教団元幹部の死刑執行。多くの謎を残したままの死刑執行に、様々な声が挙がっている。麻原彰晃とはどんな人物だったのか? 6千人を超す死傷者を出した地下鉄サリン事件から17年となった2012年。最後の特別手配犯3人の逃亡生活にピリオドが打たれた年に発売された『週刊朝日 緊急臨時増刊「オウム全記録」』で徹底的に取材した麻原像を、特別に公開する。日本中を、いや世界を震撼させたオウム事件とは何だったのか。「尊師」と呼ばれた男の半生と、テロにつながった「狂気」の全貌を、全3回で明らかにする。

【第六サティアンに捜索に入る捜査員】

*選挙での惨敗が麻原彰晃を凶行へ… 背景に幼少時代のトラウマ <麻原彰晃の真実(2)>よりつづく

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■テロリスト誕生

 89年4月と9月の説法で麻原は言った。

「悪業を積むであろう人の命を絶ち、高い世界に生まれ変わらせることは、凡夫が見れば殺人だが、ヴァジラヤーナの考え方が背景にあるならば、立派なポアだ」

 仏教の高い教義を曲解し、すでに犯したものも含め、殺人を正当化していく。

 94年3月、麻原は仙台市内での公演で、ついに「対国家戦争」について言及する。

「もともと私は修行者であり、じっと耐え、いままで国家に対する対決の姿勢を示したことはない。しかし、示さなければ私と私の弟子たちは滅んでしまう」
「もう一度言おう。オウム真理教がこのままでは存続しない可能性がある。信徒は立ち上がる必要がある」

 こうして、女の子とままごとばかりしていた少年はテロリストと化した。最盛期は出家信徒が1400人、在家信徒は1万4千人まで膨らんでいた。

 95年5月16日、山梨県上九一色村(現・富士河口湖町)。警視庁の捜査員が「第6サティアン」に踏み込むと、「尊師」と呼ばれた男は、2階天井部分にあった隠し部屋で、960万円分の札束を抱き、横になっていた。教祖逮捕。一つの時代が終わった瞬間だった。

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裁判で麻原は意味不明な発言に終止…