「お心に哀悼をもってお慎みになる日ではありますが、小さな白い糸状の花をじっと眺めておられた」

 午後2時53分に庭に出て帰邸は3時7分。生物学者として知られる昭和天皇。可憐な花にどんな思いを抱いたのだろうか。

 また中村さんにとって忘れられない出来事が、昭和63(88)年の2月のことだ。

 2月27日の午前中、NHKが「二・二六事件・消された真実」という特集番組を再放送した。番組は、事件後の陸軍軍法会議で首席検察官を務めた匂坂春平陸軍法務官が残した膨大な資料を、作家の澤地久枝さんらが読み解く形で制作。当時のフィルムや関係者の証言を交えて、青年将校が重臣を襲撃し、クーデターを起こした経緯や事件の真相に迫ろうというものだった。

 午前11時45分に番組が終わった。その5分後に、中村さんは、皇居に参内した人たちの記帳をまとめた「お帳」を陛下に見ていただこうと、皇居・宮殿の御座所に上がる。

 渡り廊下のドアを開けて、ロビーに入ると奥に、昭和天皇の部屋がある。普段どおり、「中村でございます」とドアをノックして入ろうとしたその瞬間。中村さんがこれまで耳にしたこともないような声が、部屋から漏れ聞こえてきた。

 部屋にいるのは昭和天皇ただひとり。口にした内容はわからないが怒鳴るような声が響き、ずいぶん長い時間にも感じた。

 驚いた中村さんはすぐに、侍従候所(控室)に引き返した。

「陛下が番組のどの内容についてお怒りになったのかはわかりません。二・二六事件は当時から、52年も前の事件です。しかし、陛下にとっては、非常に生々しい内容であり、ご自身のお気持ちと違ったものが放送されたのでしょう」

 侍従候所で、ひといきついてから御座所に戻った。

「お帳が参っています」

 中村さんが部屋に入ると、昭和天皇は、机で原稿を書いていた。ひどく疲れた様子だった。昭和天皇があれほど激しく怒った声を中村さんが耳にしたのは、あとにも先にもこの一度きりだった。

週刊朝日 2015年5月8-15日号