文筆家の北原みのり氏は、いかに日本の女性が常にハラハラしながら公共の場で息をしているか、改めて気づかされたという。

*  *  *
 大きなトランクをひいて、電車に乗った。電車が揺れた瞬間、トランクがすーっと滑ってしまい、目の前に座っていた男性の膝に当たってしまった。うわーっ!ごめんなさいっ! と慌てて謝ると、その男性は、電車は揺れるもの、トランクは滑るもの、それに僕の膝は頑丈なのさ……とでも言うような優しい微笑みで、「大丈夫、心配しないで」と声をかけてくれるのであった。え……この人、天使?天使なの? 私はあまりのことに口から泡を吹きそうになる。

 ふと隣を見ると、大きなベビーカーが入り口付近を占領している。しかも双子が乗っている巨大ベビーカーだ。「あーっ、邪魔だと思われちゃうよ!」と、誰かが舌打ちするのではないかとヒヤヒヤしてしまう。が、圧力をかける人は一人もおらず、誰もが皆、ただ淡々とベビーカーをよけて乗り降りするだけである。ベビーカーがあるのは当たり前、物があればよけるのが当たり前、って感じで。いったい何なの? ここは天国? 天国なの? 

 失礼しました、ここはドイツです。ちなみに私は1週間の旅行で3回、車内でトランクを転がし人に当てるという、日本だったら「車内のトランク、どう思う?」という新聞投書レベルの事件を起こしましたが、誰もが「何でもない」と微笑んでくれるのでした。

 改めて思う。私たち(特に子連れの女)が、いかに街や電車など、公共の場では常に緊張し、誰かに迷惑をかけているんじゃないか、とハラハラしながら息をしていることを。

 私は天使に会った余韻そのまま、日本にいる友に「トランクをぶつけてしまったのに、微笑み返してくれる男の人が、この地球上に存在しました!」とメールした。すると、彼女からすぐにこんな返信が。

「今、地下鉄なんだけど、目の前で地獄絵が繰り広げられています。ホームでオジサンが若いサラリーマンにぶつかったところ、若いほうがオジサンを大声出して追いかけ、謝らせてます」

 ああ、見てないのに容易に想像つく自分が哀しい。マナーに五月蠅く他人に厳しい車内が地獄に見える現実に、今は帰りたくない。

週刊朝日  2014年10月31 日号

著者プロフィールを見る
北原みのり

北原みのり

北原みのり(きたはら・みのり)/1970年生まれ。女性のためのセクシュアルグッズショップ「ラブピースクラブ」、シスターフッド出版社「アジュマブックス」の代表

北原みのりの記事一覧はこちら