はじめて撮影された、霧の銀座を歩く、21歳の細野晴臣と19歳の松本隆。1968年10月26日(撮影/野上眞宏)
はじめて撮影された、霧の銀座を歩く、21歳の細野晴臣と19歳の松本隆。1968年10月26日(撮影/野上眞宏)
銀座ソニービルの「カーディナル」の前で。1968年10月26日(撮影/野上眞宏)
銀座ソニービルの「カーディナル」の前で。1968年10月26日(撮影/野上眞宏)
「ギャラをもらって、うれしがる細野晴臣とメンバーたち。千円札だ……。」1970年1月(撮影/野上眞宏)
「ギャラをもらって、うれしがる細野晴臣とメンバーたち。千円札だ……。」1970年1月(撮影/野上眞宏)
はっぴいえんどのセカンドアルバム『風街ろまん』のために、狭山で撮影。1971年9月(撮影/野上眞宏)
はっぴいえんどのセカンドアルバム『風街ろまん』のために、狭山で撮影。1971年9月(撮影/野上眞宏)
YMOのニューヨーク公演。クラブ「ハラー」にて。1979年1月(撮影/野上眞宏)
YMOのニューヨーク公演。クラブ「ハラー」にて。1979年1月(撮影/野上眞宏)

 わたしは写真が好きで、物心がついた頃から自分のカメラを持たされ、母からはわが家の記録係だと任命され、写真を撮り続けてきた。
 写真が好き、と一言でいってもいろいろなタイプの人がいる。
 写真を見るのが好きな人、写真を撮るのが好きな人、フィルムの時代には、現像するのが好きな人、などという人もいた。また、写真とはいっても、カメラが好きな人、ライカとかハッセルブラッドなどという高級カメラを集めるのが好きで、カメラを買って写さない人、というのもいる。今はデジカメの時代になって、誰でも簡単に、上手な写真が撮れるようになった。だが、わたしがこどもだった頃には、きちんと写真が撮れる人というのは、そう多くはなかったと思う。

 わたしは、上にあげたタイプのすべてが当てはまる。それくらい写真というものが好きだ。
 写真を見るのも、撮るのも、カメラやレンズも好きだ。小学校でも中学校でも、写真部の部長だった。入部してすぐに部長になった。先輩がいなかったからだ。友人たちを勧誘して部員にした。
 撮影だけでなく、暗室作業、つまり、フィルムの現像、引き伸ばしも自分でやった。自宅には、今でも暗室がある。
 撮影するだけでなく、見るのも好きだから、写真集もずいぶん買った。写真展にもよく通った。写真を撮影して、稼いでいたこともあった。

 前置きが、長くなってしまったが、それくらい写真好きのわたしからみて、こんなに楽しい写真集は、はじめてなのである。
 
 野上眞宏の写真集『SNAPSHOT DIARY:Tokyo 1968―1973ボックスセット [2冊セット] 』も、わたしは持っている。1500部限定通し番号付き、2冊セット、写真点数全463カットということで、2002年の発売後すぐに購入し、心ときめかせながら眺めたものだ。
 もともとボリュームたっぷりの写真集であったのだが、今回は、その写真集がさらにバージョン・アップして、収録写真数4000枚超。10倍だ! これは、紙の写真集ではなく、iPad用のアプリだからできたことだ。

 最初から写真の量で驚いてしまったが、このアプリ、ほかにもまだまだ凄いことがある。だが、それを語る前に、野上眞宏の写真について書いてみたい。

 まず、第1の特徴が、ここに納められた写真のほとんどが、野上眞宏のプライベート写真だということだ。そして彼は、修行という言葉も使っているが、意志や意図をもって、これらの写真を大量に撮影しているのだ。これだけのプライベート写真を残した写真家ということであれば、1894年生まれのフランスのジャック=アンリ・ラルティーグを思い出す。
 裕福な家庭に育ったラルティーグが10代から撮影した写真は、パリの華やかな女性たちであり、そのファッションであり、海などのリゾート地での過ごし方や、出て来たばかりの自動車に乗る姿、2枚の羽を持つグライダーで遊ぶ姿など、上流階級の生活が、生き生きと写されている。ラルティーグのプライベートな写真が、その時代の貴重の記録になったのだ。

 野上眞宏は、日本のラルティーグだと、わたしは位置づけたい。

 第2の特徴が、撮影していた学校の友達たちが、歴史に名を残す有名人になっていった、ということだ。
 1968年の10月、ディスコ「コッチ」に箱で出ていた松本隆のバーンズというバンドのベースを細野晴臣がやるようになって、野上もいっしょにくっついて観に行った。いっしょに行くとただで入れたからだという。
 演奏の後、野上と細野と松本の3人は、深夜の東京を徘徊した後、野上の家に行き、野上は自分が写真を撮っていたことを思い出し、ニコンFを取り出して、写真を撮ろうと提案する。
 そのとき、松本隆が、「ねえ、細野さんそうしようよ」ということで、野上の家の近所にある、目白の東京カテドラル教会に行き、野上は、細野晴臣と松本隆の写真を撮影することになる。
 その日は、東京にはめずらしい深い霧が出ていて、とても幻影的な写真になっている。
 その後、3人はコーヒーが飲みたいということで、銀座に行き、まだ霧が残っている早朝の銀座で写真を撮る。
 そのまま行くところにあぶれたのか、池袋の立教大学のキャンパスに行き、写真を撮る。
 野上と細野が立教大学生の21歳、松本隆は慶応大学の1年生19歳だった。

 次の日、バーンズが日本橋の東急デパートで演奏をするということで、野上は前日、写真を撮ったのがきっかけとなり、「演奏している写真も撮ってあげよう、きっと彼らの青春のよい思い出になるに違いない」と思ったという。10年後に見たら笑えるだろうな、10年後には、こんなことやっていないのだろうな、そう思って撮影したという。
 しかし、その予想とは大きく異なり、彼らは日本の音楽界の重鎮になっていく。また、彼らを取り巻く音楽、ファッション、デザイナーなどが現れてくる。
 ミュージカル『HAIR』に出演していた小坂忠、はっぴいえんどなどの録音中のミュージシャンから、後にデビッド・ボウイやTレックス、YMOなどの写真で知られるようになる写真家、鋤田正義やYMOのアートディレクターを務めることになる奥村靫正などの若き姿、そのプライベートの素顔が写されている。そして、ファッション業界に集まる女性たち、ファッションモデルだけでなく、スタイリストや様々なスタッフ。通うお店の人たちも写されている。
 また、細野晴臣を例に挙げれば、音楽活動だけでなく、結婚式からはじめてこどもが生まれてのお宮参りの写真などもあるのだ。

 第3の特徴は、時代が写されていることだ。オリンピックで変化していく東京の風景。最初に銀座で撮影した写真にも1968年の銀座、みゆき通りの風景が写っている。「ROPE」のお店の前で松本隆がかけているサングラス、その着ている服なども、その時代の記録になっているのだ。
 変化し続ける東京の街の風景、そこで暮らす人々の日常とパーティーなどの様子、自動車や家、ライヴの写真などが写っている。

 その後、野上はアメリカに渡る。1974年だ。
 アメリカでも、その撮影は続いていく。しかし、おもしろいのは、1979年11月に行われたYMOのトランス・アトランティック・ツアーの写真のコメントだ。
 ニューヨークのクラブ「ハラ-」の写真で、野上はたくさんのカメラマンがYMOを撮影する様子を見て、「自分の中で、彼らを撮影する役目が終わってしまった」と感じたと語る。そして、「日本人がアメリカ・ツアーをするなんて、細野すごい! と思った」と書いている。

 このような写真が4000枚、それにこのアプリでは、野上自身が写真に対してコメントを書き、また、当時の思い出を語ってるのだ。加えて、野上眞宏とゆかりの深い、鋤田正義、高橋靖子、細野晴臣、松本隆、鈴木茂、柳田ヒロなどの肉声も入っている。

 このような写真集、アプリが出てくるなんて、おもしろい時代になったものだ。そして、この力作アプリを制作したスタッフの方々にも、敬意を表したい。[次回11/26(水)更新予定]

■『野上眞宏のSNAPSHOT DIARY』iPad アプリケーションはこちら
http://nogamisnapshot.com/

■Apple Store, Ginzaでトークセッション開催決定(ゲスト:細野晴臣)
http://nogamisnapshot.com/2014/11/10/talksession/

■アプリ発売記念 「はっぴいえんど」写真展開催
http://ledeco.main.jp/?p=11384