『新月全史』新月
『新月全史』新月

 新月のヴォーカル北山真とは、劇団インカ帝国の『矢車草』を見に行った日に出会うことができた。彼は公演の音響オペレーターも担当していたので、会場にいたのだ。

 彼は、Wさん(第49回に登場)と同じ高校の同級生であった。また、以前どこかで書いたことがあると思うが、のちに「文学バンド」という名のバンドを北山、花本、わたしといっしょに作ることになる劇団インカ帝国の看板俳優、時任顕示も同じ高校の同級生であった。
 わたしは北山真が選曲・作曲した楽曲一覧を見ながら、いろいろと質問をした。わたしの知らない音楽世界が広がったような気がしたのだ。

 その後、わたしは劇団インカ帝国で3本の芝居に出演した。芸名は、藤蘭丸だった。ちなみに、夢涅春狐(むねはるこ)とか、かんど亮子といった芸名もあったと聞く。正直言って、アホである。今でも年に何度か集まっては、自分たちの当時の芸名を笑いあったりしている。当時の団員の名誉のために付け加えるが、全員がこのような芸名をつけていたわけではない。一部の役者のことだ。

 その記念すべき初出演作品が、1977年の月刊情報誌「シティー・ロード」の作品賞のベストテンに入った。劇団四季や天井桟敷、状況劇場などと並んでのベストテン入りだった。また、伊野万太も演出でべスト9に入った。ちなみに、状況劇場の唐十郎は11位だった。われわれの劇団が、にわかに脚光を浴びたのがわかった。演劇専門誌「新劇」にも写真が掲載され、「週刊プレイ・ボーイ」から取材も来た。『アングラ小劇団・花の役者群』という企画にも紹介された。

 野外でのテント公演も行った。劇団員総出で鉄パイプを組んで芝居小屋を作るのは、自分たちの城でも築くような気持だった。いつのまにか、劇団はわたしの人生のかなりのスペースを占めていた。いや、ほとんどすべてといってもよいくらいだった。クラシック・ギター・クラブは、劇団に入ると同時に辞めた。

 1年のうちのほとんどを劇団の仲間と過ごした。夕方6時には練習場に集合し、9時まで練習。お約束のように飲みに行った。この楽しさはなんだ!? というくらい楽しかった。劇団の仲間と会わないのは、公演が終わって2週間くらい。だいたい年に2回くらい公演をした。しかし、わたしにはひとつだけ問題があった。小説家になりたいと願い劇団に入ったのに、小説を書く時間が無くなってしまったのだ。

 仕送りはあったが、それでは自分のほしいレコードも本も買えない。芝居の練習とぶつからないようにスケジュールを調整しながら、バイトをしまくった。ジョン・レノンと出会うことになる東京美術倶楽部での毛氈ひき(第36回参照)。銀座松屋の催事場の片付け。そして中心になったのは、半蔵門にあった東条会館での結婚式のボーイだった。結婚式なので春と秋に集中するが、土日だけでひと月の収入は、大卒新入社員よりたくさん稼いでいたと思う。

 つまり、練習とバイトで、わたしの人生は埋まっていたのだ。
 もうひとつ、就職をしたくなかった。そのためには、学生のうちに小説家デビューをしなければいけないと真剣に思っていた。今にして思えば、まったくイカレタ若者ともいえる。いや、そうだったと思う。

 もうひとつ、わたしは演技が下手だった。それは、劇団の誰もが認めるくらいだった。こんな調子では役者では喰えない、と思った。Wさんは、シティー・ロードの演劇担当でもあったので、わたしにいろいろな人を紹介してくれた。高田馬場に流山児祥が率いる演劇団の練習を見に行き、打ち上げにも参加し、山崎哲などとも飲んだ。山海塾を立ち上げるというときに、天児牛大(あまがつ うしお)とも会わせてくれた。演技は下手だがセンスはあるから、舞踏をやったらどうか、とのことだった。「頭は剃らなければいけないのですか?」とたずねると、「そうだ」と言われた。お断りした。

 しかし、小説家になりたいというわたしの夢は捨てることができなかった。
 そして、3本の芝居に出演したのち、役者をやめることにした。

 時任顕示は、「うらぎりもの、お前がいなくなったら、さみしいじゃないか」と言ってくれた。
 その時、北山がこういった。
「おまえ、音響やれ」
 そして、続けて言ったのは、
「おれは新月でデビューすることになりそうだ。レコーディングに入ったら、音響まで手が回らないかもしれない」
 この一言で、わたしは役者はやめても、音響オペレーターとして劇団インカ帝国に残ることになった。
 そして1979年、新月がデビューした。
 劇団インカ帝国のことももっと書きたいのだが、次の機会とする。ここからは、新月についてである。
 
 わたしは新月のファン・クラブを作ることにした。
 一番の理由は、本や雑誌を作ってみたかった、だろうか。会報を作りたかったのだ。
 さっそく新月や劇団インカ帝国のファンの女の子に声をかけ、新月ファン・クラブを立ち上げた。新月の花本彰が、会員番号NO.1はこの人にしてくれといって、名前と住所をくれた。その人は後に、チケットぴあを創った主要メンバーのMさんだった。

 わたしたちは新月のコンサートに行き、ファンクラブの会員を募った。その場で会費をもらった。会費をもらったからには、すぐに動く必要があった。
 会報は、北山真と劇団インカ帝国の時任顕示が勤めていた印刷所で作成した。会報の郵送料は、新月のアルバムを出していたビクター・レコードが用意してくれた。
 会報は隔月発行とし、その間に「毎月新月」というA3一枚のチラシのようなものを作った。当時の新月は、月に何度かライヴを行っていたので、そのスケジュールや関連情報を掲載した。
 また、ライヴやプライベートな写真を撮影した。

 しかし新月は、デビューアルバム発売の1年後の1980年に、ライヴ活動などを休止してしまう。
 わたしは卒業間際に一編の小説を書き上げ、角川書店の「野生時代」新人賞に送った。発表は卒業後ということで、やはり就職するしかない状況になった。
 しかし、就職活動はしなかった。何とかなるだろうと思っていたのだ。のんきな奴だ。
 東條會館の結婚式のバイトを紹介してくれた人が、「ホテルマンにならないか」と声をかけてくれた。一流のホテルだった。「君は、ホテルマンになるために生まれてきたような人間だ」とまで、言っていただいたが、お断りした。
 東京美術倶楽部でバイトをしていたときに声をかけてくれた日本橋の骨董屋さんが「うちに来ないか?」と声をかけてくれた。老舗の骨董屋のようだった。この方も、「君のような若者が、骨董界には必要なのだ」といっていただいた。心はかなり揺れたが、やはり、お断りした。

 新月の会報を作るのに使わせていただいていた印刷所の社長が、誘ってくれた。北山真や時任顕示の勤めていた印刷所だ。ここで、新聞に折り込むための地域情報誌を作れとのことだった。わたしはここに就職した。他に、劇団インカ帝国の女優も何人か仕事をしていた。まるで、劇団の延長のような仕事場での生活が始まった。

 その春、「野生時代」新人賞の発表があった。予選を通過していた。しかし、次の月の最終結果発表では落選した。
 新月は1976年ごろに結成され、81年には活動を休止した。同時に、新月ファンクラブも活動を休止した。

 その後、北山真プロデュースのSNOWレーベルを立ち上げ、「文学バンド」などのインディーズ・カセットなどを出すが、北山真はインストゥルメンタルの『動物界之智嚢』を出した後、登山家となるために、音楽活動から遠ざかってしまう。彼は後に、日本フリークライミング協会理事長にまで上り詰める。

 わたしは花本彰に呼ばれ、ぴあで仕事をするようになった。そこには、終焉間際の新月でドラムを叩いていた小澤亜子がいた。わたしはその後も、彼女が参加した女性だけのロック・バンド「ゼルダ」の写真を撮影したりした。しかし、情報誌を出版していたぴあが、チケットぴあを立ち上げるというので社員になり、撮影や文章を書く仕事はやめた。

 2005年のBOX『新月全史』を作るきっかけやその中の写真のこと、2006年4月の26年振りのライブに向けてのメンバー全員の顔合わせ会など、まだまだ話したいことはあるのだが、残りは、別の機会としたい。
 今度のライヴには、北山真は参加しないとのことだ。ここにも、新しい新月の姿がある。[次回3/12(水)更新予定]

■公演情報は、こちら
http://clubcitta.co.jp/001/jpf/

■参考
『新月』公式サイト
新月のファンサイト ※最新の情報が手に入ります
『矢車草』使用音楽一覧 ※追っていくと「劇団インカ帝国」のHPにたどり着けます。
劇団インカ帝国時代のわたしの写真