驚いた。こういうタイトルでも、中身は逆説的な京都礼賛だろうと思ったのに、本当に悪口だ。著者自身、右京区花園生まれの嵯峨育ちだというのに。
 近郊だからこそ過敏な格差意識があるのかもしれない。東京でも文京区と荒川区は、隣接しているのにイメージが違う。それにしても洛中の特権意識は、本当にこんななのか。
 生粋の京都人が文化的蓄積に自負心を抱くのはいい。でも、それがバレてしまう無粋さはいかがなものか。観光産業的にもまずいのではないか。
 いけずと並んで、全国的に有名な「京都名物」は、坊主の茶屋遊びである。本書にも、「祇園も先斗町も、わしらでもっている」と公言して憚らない坊主が登場する。その生態もさることながら、問題は彼らの遊興費が観光客の拝観料に由来している点だ。寺の儲け主義と非課税扱いの観光収入が花街を支えている。いいのか。
 まあ、寺社はもちろん、芸子や舞妓も観光資源といえなくもないから一種のナショナル・トラスト運動と思えばいいのかもしれない。ただしその場合、日本の伝統文化は、欧米人のいうエコノミック・アニマル(今は死語?)とゲイシャに収斂しそうだが。
 しかし表面的なところだけでは話が終わらないのが井上流。そもそもお寺は昔から商魂たくましい企業体だったと看破。日本庭園が享楽的に整えられたのは寺からだったとし、その起源をホテルとしての寺の役割に見るのだ。
 最近も宿坊がブームだが、室町時代には各地の武将が寺を宿所とし、金を落とした。美しい庭は、ホテルとしてのサービスの一環であり、営業精神と快楽への意思によって禅僧の美意識は磨かれ、精進料理も生み出された……。
 さらには南北朝時代(戦前風にいうと吉野朝時代で、京は都ではなかった)の怨霊思想を引き合いに出して、味方しか祀らない靖国神社の近代主義的冷酷さをチクリとやる辺り、さすがです。

週刊朝日 2015年10月30日号