写真はイメージ(GettyImages)
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 6年の交際期間を経て、30歳で結婚を決めたとき、基弘さんはふと名字について考えた。日本では、結婚する際に役所に提出する婚姻届で、夫か妻どちらかの姓に印をつけ、どちらかを選ぶことになっている。それぞれの名字が歩んだ歴史や“名字としての幸福度”を改めて考えたとき、妻の姓を名乗ってもいいと思う自分がいた。喧嘩が絶えない自分の両親に比べると、妻の両親は仲が良さそうで、幸せそうに見えた。

「婚姻届を出すときに、妻の名字に変えたいと思ってる」

 結婚を前に、基弘さんは両親にこう切り出した。自分たち夫婦の仲が良くないことは、父も母も、百も承知の事実だ。二人は驚いていたが、名字を変えようと思う理由に、自分たちの夫婦仲が起因していることを話すと、苦笑いするしかなかった。以前から結婚することにより名字を変えることを疑問に思っていた母は、基弘さんが名字を変えることに対し賛成だったが、父の反応は複雑そうだった。

「お父さんとしては愛着がある名字だから、名字を変えるのは少し寂しい」

「もう一度考えてみたらどうだ? 男で名字を変える人は少ないから、周りがいろいろ邪推するよ」

「考え直してくれ」とまでは一度も言われなかったが、「自分の中でよく考えてから答えを出したらいい」というニュアンスだった。基弘さんには兄弟がいないため、名字を変えると他に継ぐ人がいない。父の「寂しい」という言葉が、思いのほか心に刺さった。どちらの名字にすべきか、どれだけ悩んでも答えが出ない。前日になっても決めきれず、「明日決めて、婚姻届を出す前に連絡する」と父に伝え、当日を迎えた。父からは、

「お前が出した答えを尊重するよ」

とだけ言われていた。

 結局、当日の朝になっても答えが出ず、どちらの名字にするかの部分のみ空欄の婚姻届を持って、妻とともに役所に行った。役所に到着してもまだ、どうすべきか答えは出ていなかった。待合ベンチで2時間ほど考えに考え、「もうここで決めるしかない」と腹を決め、父に電話した。

「やっぱり、妻の名字にしようと思う」

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揺れ動く気持ちはあったが