――最初のカメラは?

 じつはつらい思い出があるんです。全日本代表のメンバーに選ばれてソ連(現ロシア)に遠征したとき、コンパクトカメラを盗まれて……。ホテルでちょっと部屋を空けた隙に、CDウォークマンやカメラなど電化製品を全部やられました。その日は遠征最終日。それまでめいっぱい撮影していたので、「せめて、中のフィルムだけでも返して」とすごいショックでした。機種は覚えていませんが、初めて買ったカメラだったんです。

――その後は?

 カメラマンの友人のすすめでコンタックスT2を買いました。レンズが壊れて今は使っていませんが、愛着があって手放せません。1996年、ホームページを作るのにパソコンや周辺機器を買いそろえたとき、システムエンジニアの義兄が選んでくれたエプソンのデジカメもずいぶん長く使いました。画像が軟らかく温かみがあり、肌がきれいに写るので女の子たちに大好評(笑)。「あのカメラで撮って」といつも指定されていました。

右が、ホームページやミニ写真集「マイブック」の撮影に使っているフジFinePix F10。左は、インスタントカメラ「チェキ」の伝統を受け、世界で初めてプリンターを搭載したデジタルカメラ、プリンカム。チェキを愛用していた益子さんには、海外旅行などで重要なコミュニケーションツールとなっている。
右が、ホームページやミニ写真集「マイブック」の撮影に使っているフジFinePix F10。左は、インスタントカメラ「チェキ」の伝統を受け、世界で初めてプリンターを搭載したデジタルカメラ、プリンカム。チェキを愛用していた益子さんには、海外旅行などで重要なコミュニケーションツールとなっている。
バレーボールの強さの理由を知りたくて始まった中国旅行。トルファンで出会った子どもたち。プリンカムで撮影後、プリントをあげると大喜びだった。
バレーボールの強さの理由を知りたくて始まった中国旅行。トルファンで出会った子どもたち。プリンカムで撮影後、プリントをあげると大喜びだった。
四川省の保護センターで大好きなパンダに対面。「でも、怖かったですよ。やっぱり熊ですね」
四川省の保護センターで大好きなパンダに対面。「でも、怖かったですよ。やっぱり熊ですね」

――プリンカムはなぜ?

 珍しいねってよく言われます。「チェキ」を使っていたとき、富士フイルムのバレー仲間と飲んでいて「これのデジカメ版はないの」と何げなく聞いたら、「もうすぐ廃番(製造中止)になる」と言われて初めてプリンカムの存在を知ったんです。大急ぎで在庫を探してもらい、5台まとめて買い、欲しいという友だちにも安く譲りました。だから発売当時は知らなかったんです。撮ったその場で同じ画像を何枚も出し、みんなにプレゼンドできたらいいなと思っていたので、私にはぴったりでした。でも大きくてかさばるし、重いから人気がなかったんですよね。今の技術なら半分くらいに小さくできると思うので、ぜひコンパクトなのを出してほしいですね。

――どこがメリットですか?

 私は毎年、2週間くらいプライベートで海外旅行しているのですが、プリンカムのおかげで中国では山奥の子供たちとすぐ仲良くなれました。その場でプリントしてあげるとすごく喜んでくれて楽しいですね。だから、旅にはプリンカムのフィルムをいっぱい持っていきます。

 保存用の写真は、ファインピックスF10で撮っています。画質がきれいで確認画面が大きく、電池のもちが比較的いいという理由で選びました。ブログの写真もほとんどこれで撮っています。旅には、大量の電池とメモリカード3枚以上は必ず持って行き、1日50枚、1回の旅行で500枚くらいは撮ります。ただ寒いところでは電池の消耗がすごく速いので、いつも時間との闘い。氷点下の屋外だと、あっという間に電池がなくなってしまう。私はスポーツ関係の仕事がら秋まで忙しく、まとめて休めるのがどうしても冬になってしまうんです。それに自然環境の厳しいところにばかり行くので、長時間電池がもつ機種を開発してほしいと思います。

――撮った写真の整理は

 プリンカムは、忘れないうちにコメントをつけてミニアルバムに差し込んでいるだけですが、ファインピックスのデータは、「マイブック」というサービスを使ってミニ写真集を作っています。パソコンの画面上で画像が編集でき、データを富士フイルムのサイトに送ると、2週間ほどでハードカバーに製本されて届きます。写真の大きさや配置、背景のカラー、文章など、全部自分で考えられるのが楽しいですね。けっこう凝り性なので二十数ページ編集したあと、気に入らなくて全部やりなおしたこともあります。マイブックは仕事で一緒に行ったスタッフや友人にプレゼントしています。プライベートだから、ちょっと人様には見せられない変な顔をした写真や羽目をはずしたシーンも気にせず、どんどん載せられるのがすばらしいですね。(笑)

※このインタビューは「アサヒカメラ 2006年12月号」に掲載されたものです