2014年平昌五輪男子フリー
2014年平昌五輪男子フリー

 羽生結弦は2014年ソチ五輪、18年平昌五輪で連覇し、22年北京五輪ではクワッドアクセル(4回転半)ジャンプに挑んだ。厳しい状況のときこそ、心を燃やす。その原動力は何だったのか。王者が、五輪3大会を見つめてきた記者に思いを明かした(前後編の後編)。発売中の『羽生結弦 飛躍の原動力』プレミアム保存版(AERA特別編集)から。

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 羽生結弦と出会ってから1年もたたないうちに、何度もその言動に驚かされた。その後も、さらに多くの驚きと感動があった。

 平坦ではなかった平昌五輪までの道のりでも、羽生のいろんな姿を見た。

 まず思い出すのは、14年11月、GPシリーズ中国杯での衝突事故だ。

 演技直前の練習中、羽生は他の選手とぶつかり、流血した。悲鳴が会場に響いた。

 脳が激しく揺さぶられると、頭の内部の血管に小さな傷ができることがある。気づかずにスポーツを続けて、次の軽い衝撃で血管の傷が広がり、死に至ることもある。ラグビーやアメリカンフットボールなどのコンタクトスポーツでは、そんな状況が知られ始めていて、それ以外のスポーツでも、事故で脳が揺さぶられたあとはプレーをやめるルールが必要だと言われていた。そんなことがこの大会の事故をきっかけに社会的に注目され、議論された。

 翌12月の全日本選手権後に腹部の手術、世界選手権前に足首をねんざ。羽生にとって、厳しいこと続きのシーズンだった。

 羽生はオフに入る直前の15年4月にこう言った。

「(将来的には)レクチャーや講演ができる立場になりたい。それこそ、アスリートとして。僕は(中国杯で)脳振盪の恐れがあった試合を経験した。だからこそ、その危険性を説得力をもって伝えられると思う。もちろん医務的な話だけでなく、五輪の経験を生かして、スポーツ界全体を盛り上げられるような存在になりたい」

 あらゆる経験を、社会のために生かしていきたい。そんな責任感が、どんどん強くなっていっているようだった。思い出したくもない事故のことであっても、意義や価値を見いだす。何が羽生を後押しするのだろうか、と、このときも思った。

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「逆境や自分の弱さが見えたときが好き」