ニャフンケ中心部。人通りは極めて少ない(ニャフンケ・マリ 2016年/Niafunke,Mali 2016)
ニャフンケ中心部。人通りは極めて少ない(ニャフンケ・マリ 2016年/Niafunke,Mali 2016)
ニャフンケで唯一営業をしている食堂の店主、アティヤさん(ニャフンケ・マリ 2016年/Niafunke,Mali 2016)
ニャフンケで唯一営業をしている食堂の店主、アティヤさん(ニャフンケ・マリ 2016年/Niafunke,Mali 2016)
市役所の所長さん。人口は半減したが、殺されたのか連れ去られたのかもわからないと言う(ニャフンケ・マリ 2016年/Niafunke,Mali 2016)
市役所の所長さん。人口は半減したが、殺されたのか連れ去られたのかもわからないと言う(ニャフンケ・マリ 2016年/Niafunke,Mali 2016)
教室にかろうじて残った机と椅子では数が足りず、子どもたちは床に座って授業を受けざるをえない。筆記用具も教科書もなく、黙って先生の授業を聞いていた(ニャフンケ・マリ 2016年/Niafunke,Mali 2016)
教室にかろうじて残った机と椅子では数が足りず、子どもたちは床に座って授業を受けざるをえない。筆記用具も教科書もなく、黙って先生の授業を聞いていた(ニャフンケ・マリ 2016年/Niafunke,Mali 2016)
写真左側の男性が、ニャフンケの状況を詳細に説明してくれたアリさん(ニャフンケ・マリ 2016年/Niafunke,Mali 2016)
写真左側の男性が、ニャフンケの状況を詳細に説明してくれたアリさん(ニャフンケ・マリ 2016年/Niafunke,Mali 2016)

 広大なアフリカ大陸のうち25カ国を訪ねてきた、フリーランスライターで武蔵大学非常勤講師の岩崎有一さんが、なかなか伝えられることのないアフリカ諸国のなにげない日常と、アフリカの人々の声を、写真とともに綴ります。

【写真】アフリカ北部で起きている紛争の傷跡

 アフリカ北部で起きている紛争の実態を知るため、西アフリカ・マリでの取材を続けていた岩崎さん。やっと訪れることのできた北部の街、ニャフンケで聞くことができたのは、辛い話ばかりだった。

*  *  *

 西アフリカの内陸国マリで起こったマリ北部紛争(注)がもたらす影響を取材するため、私は今年の2月、同国中部の都市モプチにいた。ひょうたんの形をしたマリのくびれた部分、まさに中心部に位置するモプチは、今も南北からの人の往来が交差する場所だ。息子の結婚式に参列するため、同国北部のトンブクトゥからやってきた老紳士は、「何もかもが(戦闘により)壊されましたよ」と話していた。モプチに滞在していると、こんな北部の声を聞くことができる。

「モプチから先はマリ北部だ」という意見もあるが、要衝トンブクトゥをはじめとした、北部の深淵を訪ねることを、私は諦めきれないでいた。北部の惨状はモプチにいても聞くことができるが、現地を実際に訪ね、直接、住民の声を聞きたかった。自分の目と耳で、現地の様子とそこにある声を確かめたかったのだ。 

 北部の取材が難しいことは、私もわかっていた。モプチ・トンブクトゥ間の道で、金品を狙った襲撃が相次いでおり、また、この地域に展開しているMINUSMA(国連マリ多元統合安定化ミッション)の軍用車両を狙った戦闘も、現在まで散発的に発生している。マリ人でさえ、陸路で南北を行き来する人は激減していた。

 それでもなんとか北部を訪ねることができないか。道を探っていた私に、取材を手伝ってくれている友人ハミドゥは、「モプチにずっといても、退屈でしょ。」とニャフンケを訪ねることを提案してくれた。

 ニャフンケはトンブクトゥ州の南端に位置し、一時期は武装勢力によって占領されていた町だ。国際的に名の知れたマリ出身の音楽家、アリ・ファルカ・トゥーレの生地でもある。モプチからはニジェール川に沿って船で向かうことができるため、陸路を進むことから生ずるリスクもない。彼の言を信じ、自らの判断も重ね、私はニジェール川を下ってニャフンケを目指すことを決めた。

 大型客船に1泊2日揺られて到着したニャフンケは、静まりかえっていた。

 船着き場こそ若干のにぎやかさはあったものの、最中心部の交差点でさえ、人出が少ない。日陰には、頭にターバンを巻いた男性が、何をするともなくぼうっとしゃがんでいる。時折通り過ぎる車両は、マリ軍人を乗せた車両か、機関銃が設置されたトラックばかり。トラックが通り過ぎると、小麦粉のように細かい砂ぼこりが舞う。町の中心部を外れるとすぐに、砂地がうねる道が四方八方に伸びていた。聞こえるのは、静寂の中、砂が体に打ち付ける音のみ。かつて訪ねたサハラ砂漠がすぐそこにあることを、地図からではなく、五感で感じた。

 ニャフンケで聞いた声は、辛いものばかりだった。

 街にたった1軒しかない食堂で聞いた話だ。

この食堂の女性店主であるアティヤ・トラオレさんは、同国中部のバンディアガラ出身だが、人生のほとんどをニャフンケで過ごしてきたという。紛争が起こる前は、30カップの米が炊ける鍋をいくつも使っていたが、今は20カップの鍋ひとつだけ。店を維持することはかなり厳しいと話す。ほかの仕事を探そうにも、男性も女性も、どんな年齢の人にとっても、ニャフンケで仕事を見つけることはほぼ不可能に近いという。

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