今年1月、日本スポーツ学会大賞を受賞した。現役引退後、30年近く続けるチャリティーゴルフなどの社会貢献活動が高く評価された(撮影/編集部・渡辺 豪)

 新連載「会いたい人に会いに行く」は、その名の通り、AERA編集部員が「会いたい人に会いに行く」企画。今週は日本人初メジャーリーガーに元野球少年の記者が会いに行きました。

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 レジェンドと呼ぶのにふさわしい先駆者。なのに、これまで正当な評価を受けてきたとは言いがたい。そう感じずにはいられないのが日本人初メジャーリーガー、村上雅則さん(79)だ。

 敗戦国日本が主権を回復したサンフランシスコ講和条約締結が1951年。それから13年しか経っていない日本社会を想像できるだろうか。沖縄も小笠原諸島も米軍占領下のまま。村上さんがメジャーデビューしたのはそんな1964年だった。世が世なら国民的ヒーローだが、当時の日本ではその活躍ぶりがほとんど報じられなかった。

 大谷翔平選手らの活躍で空前の大リーグ熱に沸くいま、村上さんはどんな思いで過ごしているのか。プロ野球の沖縄キャンプ取材から戻ったばかりの村上さんに当時のことを尋ねると、時折目を細め、ゆったりとした口調でつい昨日の出来事のように語ってくれた。

「メジャーでプレーするなんて全く頭になかったんです」

 法政二高3年の8月。エースとして出場した夏の神奈川県大会は準決勝で敗退。夏休みを実家で過ごしていた村上さんのもとに、南海ホークスの鶴岡一人監督が訪ねてきた。大学に進学するつもりだった村上さんは入団を固辞。だが、鶴岡監督が帰り際に放った一言に心が動く。

「うちに来ればアメリカに行かせてやるよ」

 テレビドラマの西部劇「ローハイド」のファンだった村上さんには、アメリカにあこがれがあった。「その途端、気持ちが変わって。だったら入団してもいいと思った」。1963年に南海ホークスに入団。翌春にサンフランシスコ・ジャイアンツ傘下の1Aフレズノに野球留学で派遣された。サンフランシスコ上空から見た街は「おとぎの国」のように映った。眼下の建物の屋根や壁の色彩がじつにカラフルだったからだ。瓦の黒と白壁のモノトーンの家屋が並ぶ日本とは別世界という印象を受けた。

 マイナーリーグの宿舎は2段ベッドの4人部屋。南海球団の通訳がシーズン前に帰国すると、日常生活にも支障が出た。村上さんは辞書を常備し、時には話し相手に英単語のページを広げて意思を伝えた。持ち前の社交性でチームメイトにも積極的に話し掛けていた村上さんの英会話力はみるみる上達。「マッシー」の愛称でチームに溶け込んだ。

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渡辺豪

渡辺豪

ニュース週刊誌『AERA』記者。毎日新聞、沖縄タイムス記者を経てフリー。著書に『「アメとムチ」の構図~普天間移設の内幕~』(第14回平和・協同ジャーナリスト基金奨励賞)、『波よ鎮まれ~尖閣への視座~』(第13回石橋湛山記念早稲田ジャーナリズム大賞)など。毎日新聞で「沖縄論壇時評」を連載中(2017年~)。沖縄論考サイトOKIRON/オキロンのコア・エディター。沖縄以外のことも幅広く取材・執筆します。

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