今から11年前、九州場所が終わり、借りていたアパートを引き払う片づけをしているとき、玄関に子が現れた。人懐っこい猫で、「ニャン」とすり寄ってくる。つい、エサをあげてしまった。

 東京に連れて帰りたい気持ちはある。だが、猫を飼う余裕はない。その上、子どもの頃にレース鳩を飼っていた親方は、猫にはいいイメージを持っていない。「どうしよう」と、ゆかさんと弟子とが相談していると、事情を聞いた親方が言った。

「かわいそうだから、飛行機に乗せて連れて帰れ」

 鶴の一声で荒汐部屋の一員となった子猫のモルは、初日から物おじせず、力士たちにすり寄っていった。それだけではない。どうもモルには不思議な力があるようなのだ。

 2002年に立ち上げた荒汐部屋は、金銭的に大変な時期が続いていた。数人しかいない弟子は、まだまげも結えないザンバラ頭ばかり。その弟子も逃げてしまったりと、ゆかさんと親方はいつも心配事が絶えなかった。それが、モルが来てから、1人、2人と弟子が増え、今は12人の力士と、床山と行司を抱えるまでになった。

「トンネルを抜けるように、徐々に、明かりが見え始めてきたんです」

 そんなゆかさんを支えるかのように、ゆかさんが話しかけると、モルは「大丈夫、大丈夫」と言うように目をシパシパさせながら聞いてくれる。契約や集金のために銀行員が来ると必ずすり寄っていき、稽古を見にくる外国人観光客には、寝転がっての営業を忘れない。

「モルが来てから良くなったね」

 いつもゆかさんは親方とそう話している。きっと今日も、モルは親方の膝の上で、力士たちを鼓舞しているはずだ。

AERA 2016年1月18日号より抜粋