学校に入ると、自分は両親の罪を受け継いだ人間だと教師から叩き込まれた。収容所で生まれた子どもは他にもいたが、経歴について話すことは禁じられていたため、どのぐらいの人数だったのかは知らない。他人はもちろん、友人や家族も常に監視し、話の内容や行動におかしい点があれば、教師らに報告するよう教育された。

 そんな申氏にとって、彼が13歳の春にとった行動は、直感的で自然なものだった。

 その日たまたま、教師の指示で学校の寄宿舎から自宅に帰ると、いるはずのない兄が家にいた。セメント工場の労働から逃げ出し、見つかれば銃殺は確実だった。夜、申氏が話し声に目を覚ますと、母と兄が収容所からの脱出を話し合っていた。母は、ふだん食べられない白米を、兄のために炊いていた。

 申氏は午前1時に学校に行き、見たままを警備員に密告した。見返りに、食べ物と学年リーダーの地位を求めた。申氏が次に母と兄の姿を見たのは、7カ月後の2人の公開処刑の場だった。この間、申氏と父も脱出計画への関与を疑われて監禁され、天井からつるされ火であぶられるなどの拷問を受けた。
 
 22歳のとき、収容所を脱出。中国経由で韓国に渡った。申氏は現在、唯一の収容所生まれの脱北者とされる。

AERA 2014年3月24日号より抜粋