
『戦国武将を診る』などの著書をもつ日本大学医学部・早川智教授は、歴史上の偉人たちがどのような病気を抱え、それによってどのように歴史が形づくられたことについて、独自の視点で分析。医療誌「メディカル朝日」で連載していた「歴史上の人物を診る」から、チンギス・ハーンを紹介する。
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【チンギス・ハーン (1162年頃~1227年)】
以前、大河ドラマで戦国時代の話を放映していた時、田舎の母から電話がかかってきた。主人公が祖母の実家の出身だというのである。1世代25年で計算すると母までは17世代なので、DNAの約0.00000763を共有していることになる。
誰もが有名人の子孫
我々は必ず両親の子どもであり、両親双方の祖父母がいる。祖先の数は代を遡ると指数的に増大、すなわちn代前には2n人の祖先がいることになる。
日本の人口は縄文時代以来漸増し、室町末期から江戸初期に約1000万人となるが、この計算では24代前(室町時代)の先祖は1677万7216人となり、当時の日本の人口を超えてしまう。実際には先祖を同じくする人の間で子孫ができたであろうから、g代前にc組の兄弟姉妹関係が現れる場合、n代前の祖先の人数は2n-c*2(n-g)になる。
弥生時代以降、大規模な異人種流入もなく階級固定のなかった日本では、十数代遡ればみな親戚であり、貴方も私も歴史上の有名人(ただし子孫を残していれば)の血をひくことになる。
個人のゲノムは、代を重ねることにより極めて速やかに薄まってゆくが、例外はY染色体で、これを遡ることによって父系の先祖がたどれる。昨今、喧しい女性宮家や女系天皇の論議もここに行き着くが、Y染色体上には一次的性決定遺伝子が存在する他には、運動能力や知能、感染への抵抗力など進化の上で有利な遺伝情報が何もないことは大きな皮肉だと思う。
さて、遺伝的情報量の少ないY染色体ではあるが、いくつかの多型領域がある。2005年、英国Tyler-Smithと北京大学のXueらは、Y染色体マーカーを用いた解析により、現在、中国北部とモンゴルに住む男性のうち150万人が清朝の始祖ヌルハチの祖父・景祖ギオチャンガ(?~1583年)の血を引いているのではないかという仮説を報告した。同様の研究はいくつかあるが、オックスフォード大学のZerjalらは、モンゴルから北中国の男性の8%、実に1300万人が共通するY染色体ハプロタイプを有していること、恐らく彼らはモンゴル帝国の始祖チンギス・ハーンの子孫ではないかという仮説を発表した。
日本人にはない染色体
チンギス・ハーンは1162年、モンゴルの有力な氏族長の長男として生まれ、テムジンという名を与えられた。父は勇将であったが、テムジンが9歳の時に急死、一族は急激に没落する。他部族に圧迫されながらも母や父の盟友たちの手で優れた武将として成長し、幾度かの厳しい戦いを乗り越えて、1205年にはモンゴル諸部族を統一するに至る。
その後も征服を進め、1227年のハーンの死までに、東は長城を越えて西夏(中国北部)へ、西はシルクロードを越えて中央アジアから黒海沿岸に達した。モンゴル軍団の遠征はハーンの死後も続き、中国全土を制圧して元朝を樹立、西はハンガリー平原に達した。
チンギス・ハーンのY染色体は中央アジアから中東まで分布し、村の先祖がチンギス・ハーンだという伝説のあるパキスタン北部フンザでは特に多い。
比較的短期間に特定のY染色体を持つ人が広がった根拠として、貴族階級の間で一夫多妻制が一般的だったためではないかという説が有力である。倫理的な問題はともかく、歴史的に、征服者の男性が被征服者の女性に子どもを産ませるのは珍しいことではない。しかしながら、彼らをチンギス・ハーンあるいはギオチャンガの子孫とすることについて、スタンフォード大学のCavalli-Sforzaは、共通の先祖を想定できても歴史上の特定の人物の子孫と断定するのは無理としている。
ただ、いずれの研究でもこのY染色体は、日本人には全く見られない。この事実から、同時代の軍事的天才だった九郎判官、源義経が平泉を脱出し蝦夷から大陸に渡り、チンギス・ハーンになったという伝説は否定できる。