ほかにも、2003年には、長崎市で幼稚園の男児(当時4)が中学1年の少年に連れ去られ殺害された事件について触れ、
<連日の報道に触れて一番腹が立つのが「心の闇」。このキーワードを使うとき、書き手も読み手も、「こんなとんでもないことをしでかす子は、いい子の仮面の下に大きな心の闇を持っているに違いない」と考え、自分とは違う何かを探し出そうとする。あたかも心の闇は、健全な魂には存在してはいけないかのように。だいたいいい子というキーワードもくせ者なんだが。大きな声で言えるが、私にだって大きな心の闇はある。(中略)今後も、報道に「12歳の心の闇の解明に…」などの文字が出る度、ほっとする人、不安に陥る人、そして私はカッカする>
などと感情を高ぶらせた様子で書いている。
「ヒト」と「人間」の境とは
戦争の報道を取り上げて、こんな生々しい内容も記していた。
<「どうして人殺しをしてはいけないの」に対する根拠は乏しい、と鬼の首でもとったような底の浅い論が出まわった。そもそもどのような問いにせよ「どうして」に答えるのは至難の業なのだが>
<「殺す」が「傷つける」の究極と考えれば、人間関係とは「その関係の維持には『傷つけない(殺さない)』ことが必要だが、関係を維持すれば必ず『(殺さない程度に?)傷つける』ことがある」という矛盾(のようなもの)を孕んでいる。しかし括弧書きしたように殺すと傷つけるは程度(量)の問題だけではなく、質的な境界が(幅はあるが)存在する。それが「ヒト」と「人間」の境>
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