『Mr.トルネード 藤田哲也 航空事故を激減させた気象学者』健一, 佐々木 小学館
『Mr.トルネード 藤田哲也 航空事故を激減させた気象学者』健一, 佐々木 小学館

 旅行や出張など、長距離旅行で利用する飛行機。私たちが安心して空の旅を楽しめるよう、多くの技術者が心血を注いでいることは言うまでもないだろう。また忘れてはならないのが、安全な航行の大前提でもある「気象条件」。地上からは見えなくても上空で何が起きているのか、あるいは起きようとしているのか緻密なデータから算出しなければならない。

 気象条件によって、世界中で起きてきた痛ましい航空事故。実はその回避に大きく貢献した気象学者が日本人だったことをご存じだろうか。今回ご紹介する佐々木健一氏の著書『Mr.トルネード 藤田哲也 航空事故を激減させた気象学者』(小学館)は、アメリカで気象研究に尽力した藤田哲也の人生に迫る1冊だ。竜巻の大きさを分類する単位「F(フジタ)スケール」を考案した藤田は1998年に亡くなっているが、佐々木氏は冒頭から賛辞を惜しまない。

「現在も世界中で使われている竜巻の単位の原型を考案したのは、その名にある通り、藤田哲也なのです。気象学の常識を次々と塗り替える研究を発表し、"Mr.トルネード(竜巻)"という愛称でメディアに取り上げられるほどの存在でした」(本書より)

 日本ではあまりなじみのない「竜巻」だが、なぜ竜巻研究の第一人者が航空事故を激減させることができたのだろう。そもそも藤田は気象学者になる前、母校である明治専門学校(現・九州工業大学)に務めていた経歴の持ち主。とはいえ関心は気象学に向けられており、藤田が福岡管区気象台を訪れた際のエピソードからもその熱量が垣間見える。

「普通は『白地図』と呼ばれる真っ白い天気図に観測地などを書き入れるが、藤田はそれを使わず、地図を自分で作って、それで気象解析をしていた。

 独学で始めた藤田の気象分析は、従来の常識にまったくとらわれないやり方で、気象の専門家たちもうならせる内容だった」(本書より)

 底知れない藤田の才能は気象台長まで驚かせることになり、気象庁職員でもない藤田に職員と同じ待遇が与えられたという。さらに背振山の山頂に建つ気象観測所の使用まで許可され、藤田は雷雲観測や論文の作成に没頭。「雷雲の下降気流」にまつわる論文が高い評価を受け、シカゴ大学気象学部の教授に招かれる形で1953年に単身渡米を果たした。

 実は藤田が竜巻研究の権威となったのは、渡米によるところが大きい。アメリカは日本と違って竜巻の発生率が非常に高く、世界で発生する竜巻の3分の2がアメリカに集中しているほど。そんな環境下で藤田は持ち前の計算力を駆使して竜巻の分析に挑み、1971年に竜巻のスケールを分類する「Fスケール」の考案に至ったのだ。

「藤田の竜巻研究はすべて、現場で何が起きたかをよく観察し、そこから疑問や着想を得て、合理的な推論を導き出した結果だった。まるで、現場に残る遺留品から推理を働かせる刑事や名探偵のように」(本書より)

 渡米時は無名研究者だった藤田だが、わずか10数年でシカゴ大学教授にまで登りつめている。時には突拍子もない考察が批判を招くこともあったものの、詳細なデータを基に反論をはねのけてきた藤田。その卓越した観察眼や分析能力を評価されて挑んだのが、1975年6月に乗員・乗客112名が死亡したイースタン航空66便の墜落事故だ。

 藤田は持ち前の観察眼を活かし、飛行機を墜落させたのは下降気流が地表に激突することで発生する衝撃波「ダウンバースト」だと推測。その結論へと至るには自身の竜巻調査だけでなく、長崎の原爆爆発を調査した際の記録もヒントになったようだ。藤田は時に自身の意見が批判を招くことを知りつつも、考えを曲げるようなことはしなかった。

「この件は考える間もないほど急を要していたのです。そこで私は、1945年に原子爆弾の被害調査を行った経験から、勇気を持って『原因は、ダウンバーストだ』と言い切ったのです」(本書より)

 藤田の予測通り墜落原因を巡っては「ダウンバースト論争」が巻き起こったものの、最新レーダーによる観測が成功してダウンバーストを立証。藤田自身が飛行機に同乗してダウンバーストに突っ込むなど精密なデータを蓄積していき、「ターミナル・ドップラーレーダーシステム」の開発に至る道筋を切り開いた。

 新システム導入によって航空事故を激減させた藤田。同書では講演会で藤田が語った次世代へのメッセージも紹介している。

「特に、若い世代に言いたいのは、『恥ずかしがらずに。言いたいことを言いなさい』ということです。

もし、あなたの主張の50%が正しければ、価値ある人生を送ったということです」(本書より)

 藤田の功績とメッセージを胸に、困難が続く現代社会を悔いなく乗り越えてほしい。