まんが原作者・批評家である大塚英志さんの最新作である『クウデタア 完全版』(KADOKAWA)が発売になりました。舞台は敗戦の開放感と新時代への不安が入り混じる1950年後半と1960年前半、三島由紀夫、大江健三郎、石原慎太郎、江藤淳という戦後文学の担い手たちと、内なる「クウデタア」を決行した少年たちを描いた青春群像の物語です。原作者の大塚さんに『クウデタア』の時代について引き続きお話を聞かせていただきました。

■「黒子」が見えるのか見えないのかという違い

---- 今回の『クウデタア 完全版』の前半部分でもある単行本は以前にイーストプレスから出ていて、残りの部分はKADAKAWAのサイト『コミックウォーカー』で連載されていました。イーストプレス版のラストはミッキーマウスのようなキャラクターがいましたが完全版にはいないのは何か理由があるのでしょうか?

大塚:あれは、要は旧版では終らなかったわけです。旧『クウデタア』はフランス版刊行が先行していて、ひとまず頁数の上限もあって、山口二矢(Y)を描くつもりだったのに、投石少年(M)の方が面白くなってきたので彼の方を描きこんでしまって肝心のYが描けなかった。あと小松川事件の李珍宇(K)も膨らんだ。時系列的にはYの事件が一番最後なんで、そこまでたどり着けなくて、フランス語版に仕方ないく入れていた頁です。なんか終った感じを出すために。

 それで、めでたく、「その後」を描く完全版を出すことになって、削除しました。ミッキーに問題があったわけではない。

---- 冒頭の三島由紀夫と三人の少年テロリストのシーンはイーストプレス版にはないんですか?

大塚:あれも本来はイーストプレス版に載せる予定はなかったです。フランスの編集者がわからないって言い出したので、それならフランス人向けにわかりやすくするよって追加した部分ですね。結局、イースト版にもおなじくわからないっていわれて載せましたが。

---- わからないって言われたんですか?

大塚:そう。

---- 「内面」についての描写みたいなことですか?

大塚:フランス人に関して言えば、彼らの期待する「日本」じゃないから。それで、能とかもちだしてもっともらしく説明したけど、これは三島由紀夫がやったのとおなじ皮肉です。『憂国』という映画を撮る時に「とにかく影をつけろ、影をつけたらフランス人は芸術だと思うから」って撮影現場で言っていて、それと同じことをやったわけです。ほら、「日本」でしょって。

---- それで彼らと一緒のシーンに「黒子」もいるんですか。

大塚:そう。能を思わせる枠組みにすればフランス人はいいんでしょっていう。「日本版」出すにはフランス版を先にだすと今度はフランスの権威に騙されて日本版がだせるという戦略でした。

---- そういうことなんですね。

大塚:未だ、フランス人の日本文化の理解なんてそういう水準の人も多い。

---- しかし、「黒子」の存在が説明過多ですよね?

大塚:過多。でも、そうしないとわかんないっていうから。今回のバージョンではイントロはカットしようかなって思ったんだけど。

---- でも、いた方がわかりやすいです。

大塚:「黒子」の男は別に能の黒子と全然、関係ないんだけどね。

---- 「黒子」はYの女の子の同級生がいる時には見えなかったりしますね。

大塚:人によって見えたり見えなかったり。

---- 投石少年も当時の皇太子に石を投げてから見えるようになったりもします。

大塚:三島と大江には見えるけど、江藤と石原には見えない。それはたぶん彼らの文学の違いだったり、三島と大江のある種の近さだったりする。まあ、そんなことは自分で考えよう、読めばわかるよってことです。

■「クウデタア」が一人の人間の内部で起きるということ

---- Yが所属していた右翼の党首が「彼の中にはもう一人の自分がいてそれが内から彼自身の覇権を主張しているというか それじゃあまるでクウデタアだな 人を国家に置き換えれば」というセリフを言っているのが印象的でした。

大塚:その内的なクウデタアを外化する時に、彼らはテロとか犯罪みたいなものに向かっていってしまったということです。

---- それは時代性という部分も大きかったりしますか?

大塚:内からもう一人の自分が出て来るとか言っても、今だったら多重人格、解離性同一障害言えばもっともらしいし、ネットで裏アカウントを持って複数の私を使い分けて事足りてしまう。今の自分を乗り越えよう、変えようとする自分の身体を巡るクウデタアをせざるをえなかった彼らは、結果、それが犯罪やテロになってしまった。その心の動きっていうことがこの作品の主題であって、個人の内面でのクウデタアを読み取ろうとした戦後文学者たちがいたんだよっていう物語です。

 その内なるクウデタアっていうのは今の時代でもひっそりと、さっきも言ったように秋葉原の事件であるとか、いいとか悪いとかではなくて、本当はどんな時代でも起きているはずなんだよね。それが見えにくくなり、読み取って公共化していくような文学が今ないというのが問題だよねってこと。

---- この作品を読むとそれがより鮮明になってしまいます。

大塚:まあ、この作品はわかりにくい話だからネタバラシをしちゃっていいと思うけど、最後の方でYのお腹の中から何かが出てくる変なシーンがあるんだけどね。

---- 頭部が出てくるシーンがありました。

大塚:その前に女の子がYに言うセリフがあるでしょ。

---- 「京都の大学病院で十八歳の少年のお腹の腫瘍を摘出したら二十二センチ、二千二百六十グラムの人の頭が出てきたんだって 目も口も鼻も耳も髪の毛だってあって奇形種って言うんだって もしかしたらあなたのお腹の中にもいる?」と言うセリフがありますね。

大塚:これは手塚治虫の『ブラックジャック』のピノコを作る時に多分、参照した実話なんですよ。当時の新聞に出ています。

---- なんとなく読んでいてピノコっぽいって思いました。

大塚:でしょ。つまり内側から何かが出てくるものが自分の主観を乗っ取るみたいなことを、そのエピソードの中で引っ掛けてわかりやすく表現してるつもりなんだけども、まあ、わかりにくいと思うから、口で説明しました。邪道だけど。

---- 内側からのクウデタアが起きてくるという。

大塚:そう、生じてきてしまう。だから、それはイデオロギーとか思想じゃない。作中では主人公たちの政治的な立場ってほとんど説明されていないでしょう。Yがどういう右翼団体の思想を持っていたのかとか、あるいは逆にKにもとめられる在日コリアとしての政治性とか、いわば「政治化された内面」を敢えて描かなかった。

---- 言われれば今作では内面的な部分の説明はなかったです。

大塚:それは置き換え可能だからということです。Yだって、誰かとの出会い方やで左翼セクトやブントの方にいく可能性もあった。美智子が何かのタイミングで違う方に行ったかもしれない。投石少年がちゃんと大学に受かっていれば右か左のどっちかに引っ張られたはずです。

 つまり特定の政治思想というよりも、彼らの内面で何か自分の内的なものをひっくり返して新しい主体みたいなものが、自分の中から出てくるそのエネルギーを止められなかったという時代だった。若い子たちがみんなそんな風に、内側から出てくる何ものかに対して自分を委ねるべきか否かってことを考えていた。そこで突出しちゃった幾人かの子たちがテロリストや犯罪少年になっていったし、そこの辺りをうまくコントロールしていけば、それぞれの政治グループで、もっとうまく活動していく人間になっただろうし、あるいは福田章二(庄司薫)みたいにそんなものはやり過ごして大人になっていく人もいたわけだよね。

■わからないように書いてある

---- 『ヤングエース』で連載中の『東京オルタナティブ』は『クウデタア 完全版』でも組まれている西川聖蘭さんと再び組まれていて1989年が舞台になっています。昭和の最後の年の話なので今作と繋がっている感じがします。『東京オルタナティブ』の冒頭では宮崎勤事件を彷彿させるところから始まります。

大塚:直接『クウデタア』と関係はないです。さっきも話に出た黒子、僕と西川さんは「鼠」って呼んでるんだけど、彼は「東京オルタナティブ」にも出てきます。まあ、「スターシステム」的な使い方ですけどね。

---- あの黒子って「鼠」って名前だったんですか。モデルとかいるんでしょうか?

大塚:モデルっていうかね、宮崎勤の供述調書の中に出てくる「鼠人間」。

---- えっ、あれなんですか!

大塚:そう。自分は殺していない、鼠人間が殺したんだって、彼は供述していてね。それがずっと頭にあって、西川さんに鼠人間というキーワードで浮かぶキャラクターを描いてくれって言って5、6案出てきた。そのひとつがイーストプレス版のミッキーマウス男になった。

---- そういう繋がりが、二つのまんがの中にあったんですね。

大塚:宮崎の言ってることで結構、K(R)の発言と被るんですよ。夢の中の出来事のようだ、とか。

---- 「鼠」はどこか大塚さんが書かれた小説版『多重人格探偵サイコ』の語り部である大江公彦みたいな感じもしました。

大塚:「鼠」は、『東京オルタナティブ』では歴史修正委員会っていう『エヴァ』のゼーレみたいな存在があって、そこの中のメンバーの一人になってる。ぼくは鼠を出そうと思っていなかったけれど、西川さんがあるキャラを「鼠」として描いてきたからそういうことかって、それでいいかって感じでね。

---- 『クウデタア』や前作の『アンラッキーヤングメン』は『東京オルタナティブ』の時代における前史みたいな過去の時代を描いています。

大塚:10年おきに三部作で、50年60年70年でしょ。80年がまだなくて『東京オルタナティブ』は90年前後だから、そういう意味で10年おきの端境期という部分ではまあ被るけれど、あれはどちらかというと映像版「サイコ」で描いた「終らない昭和」というモチーフの始まりの部分でもある。

---- 『東京オルタナティブ』は『コミックウォーカー』で今だと2話までアップされているのでそちらを読んでもらって、興味を持った人は『クウデタア』も手に取ってもらえばいいですね。

大塚:まあ、全然テイストは違います。『クウデタア』は戦後文学者を扱ったけれど、最近だと10秒で読む名作だとか、文豪たちをキャラクター化したものとかね、そういうまんがでわかりやすく文学を理解しちゃおうというものの正反対にある作品です。だからはっきり言うと読んでもまったくわからないはずです。わかりにくい。

 例えば、戦後文学に対しての最低限の知識がないとついて来れない。不親切です。でも、わかんないってことが大事なんです。ただわかる手続きとして、注釈で出典が示してある。

---- どんな本のことなのかとか最後に出典の一覧がありますね。

大塚:例えば三島由紀夫の『鏡子の家』という作品が出てくるけど、その『鏡子の家』を読んでください。彼らの文学を読むことで『クウデタア』の意味はいくらでも変化する。

---- 検索ワードはあるんだからってことですね。

大塚:そう。大江健三郎ってweb検索した瞬間に、彼に対しての政治的な罵詈雑言がいっぱい出てくるけど、それを読んでわかった気にならないで、大江の『セブンティーン』や『叫び声』を直接、読んでみてほしいということです。だれかが「評価」した三島や大江でなく、彼らの作品そのものに触れてもらわないと意味はわからない。するとリストにない本にも当然、出会うはずです。これだけ読めばわかる、とか、簡単にわかりたい、と思った瞬間何もわからなくなる。

---- 大塚さんが前に言われていた小説や表現というのは読者や受け手に夢を見させるものではなくて夢から醒まさせるものであるという話に繋がっている話ですね。

大塚:キャラクター化することで文学を理解するということではなくてね。『クウデタア』では、確かにまんがである以上、大江たちはキャラクター化されていているけれど、だからキャラクターではない文学としての大江や江藤や三島や、石原に触れてもらうことで、読み手の中に「クウデタア」が起きるわけです。モデルになったテロリストの少年たちについても、稚拙であるにしても彼ら自身の残している言葉みたいなものに触れてみてください。

---- そこに文学だったものがあるんですね。

大塚:そうだね。例えば、山口二矢とか李珍宇の日記の中にはね、文学になり損ねたものや、なりかけたものがたくさんあるんですよ。

---- そういうものを発見するためにというか。

大塚:「世界」を読み解くための入り口としてね。「世界」もリアルもわかりにくいから、わからないように書いてある。ただ、わかんないからわかんないで済ませないで、わかることは、本当はすごく簡単だから。アマゾンで検索して本買えばいい。しかも、こう言うのもなんだけど大江さんや三島の本だって、下手すれば1円で買えるんだから。1円さえも出したくなかったら図書館に行けばさすがにあるから。大江も三島もね。だから、行ってみてください。

---- 三島さんなら新潮文庫でかなりありますし、大江さんも全集が出ます。石原さんは『太陽の季節』なら書店にあるはずですよね。

大塚:まあ、図書館に行けばほとんどあるはずだから。

---- そのきっかけにさえなってくれればいいってことですね。

大塚:日本の古書店のサイトでも検索かけたらどこでも買えるからね。公共図書館をいくつか回れば簡単に手に入ります。

---- このクラスの小説家は絶対にありますよね。

大塚:この時期の小説は読み手の内なる「クウデタア」を求めてくる。封印されていた『セブンティーン』第2部『政治少年死す』も来年は全集に入るみたいだしね。

取材・文/碇本学

大塚英志×西川聖蘭『東京オルタナティブ』(コミックウォーカー)

<プロフィール>

大塚 英志/おおつか えいじ/まんが原作者・批評家

 まんが原作者として活動する傍ら、89年の宮崎勤事件の一審公判に関わる。その後、「イラク自衛隊派兵差し止め訴訟」に参加、違憲判決を得る(『「自衛隊のイラク派兵差止訴訟」判決文を読む』川口創と共著、星海社)。現在は、ヨーロッパの移民居住区や東アジアなど、海外でまんが創作を教えるワークショップ「世界まんが塾」を10カ国15地域で開催。

 まんが原作者としての作品に、一連のサイコホラー作品以外に、本書姉妹編として三島由紀夫を狂言回とし、永山則夫をモデルにした『アンラッキーヤングメン』(藤原カムイ画、KADOKAWA)、柳田國男と田山花袋を軸に明治文学青年のロマン主義と「社会」に揺れ動く様を描く「恋する民俗学者」(中島千晴画、webコミックウォーカー連載中)、89年に「平成」が訪れないもう一つの日本を描く「東京オルタナティブ」(西川聖蘭画、『ヤングエース』連載中)などがある。

 本作に対応する批評としては、『サブカルチャー文学論』『江藤淳と少女フェミニズム的戦後』がある。