LGBTの差別をなくすべく理解を求める活動が活発化している昨今、「男」「女」という枠組みではない多様性が求められています。しかし、本書『男であれず、女になれない』では、そんなセクシャルマイノリティの枠組みに収まれず、「性」の居場所を求めたある男性の人生が語られます。

 セクシャルマイノリティと聞いて、性別適合手術を思い浮かべる人も少なくないでしょう。例えば本当の自分は女性であり、男性の性に違和感を持っている場合、男性的な身体的特徴を排除し、心も体も性別を一致させようとするものです。



 しかし、本書の著者である鈴木信平氏は、男性の性に違和感を覚えているものの、「女性になりたい」とは望んでいない点で事情が異なります。厳密にいえば、「女の子に生まれれば良かったと思っている」「女性になれない」というのです。実際、男性器を摘出しましたが、ホルモン接種や豊胸など女性化を施していません。著者はこう語ります。



 「何をどれだけ変えて女性に近づいたとしても、いつでも『本当は......』という言葉に怯えるようになるのでしょう。だから私にとってのそれは、私が生涯を通して抱えていく荷物を持ち替えたに過ぎないのです。劣等感や違和感、疎外感に孤独感。これらを抱える場所が、変わるだけと容易に推測できるのです。」(本書より)



 仮に女性になったとしても根本的な解決にはならないという著者。とはいえ、心は乙女そのものであることから、様々な葛藤が生じ著者を苦しめます。そのひとつであり、人生の転機となったのが、大学時代に初めて本気で"男子"を好きになった激しい恋でした。



 著者が愛した男性は、"女性"を愛する人ではありましたが、その気持ちを嫌悪せずに「気持ち自体は嬉しいもの」と優しく許容していてくれたといいます。しかし、彼に女性の恋人ができたことで幸せな時間が脆くも崩れ去ったのです。当時の心境をこう振り返ります。



 「私が私として人を愛した後に、私が私であることのすべてを否定した時間。私が私の存在すべてを拒絶した時間。そういう時間が私には確かにあった。きっともう生きないと思った。」(本書より)



 それ以来、より「結局、私は何者なのだ?」「私の性別は何のか?」という疑問が強くなり、自分の性と向き合う覚悟ができたといいます。そして、自分の性の居場所を求めて試行錯誤を繰り返していきます。その裏には家族や友人といった支えもありました。



 そうした日々が時系列で淡々と、理路整然とした言葉で綴られる本書。去勢だけの"無性化"という"宙ぶらりん"な状態を選択し、著者は性を通して自らが何者なのかという答えに決着をつけるに至ったのか......。ときに目を覆いたくなるほどの残酷な現実に文体のように穏やかではいられないかもしれません。



 心と体の性別が一致した存在である人にとって、性別というアイデンティティに尊さを感じる機会はあまりないかもしれません。しかしながら、その獲得に命を削る想いで葛藤する人たちがいることを、知るべき義務はあるといえそうです。