英文科を卒業後イギリスへ留学、英語教師を務めるなど、英文学のイメージが強い夏目漱石。しかし元々は少年時代から漢文を愛好し、それによって身を立てようとまでしていたそうです。



「元来僕は漢学が好きで随分興味を有つて漢籍は沢山読んだものである。今は英文学などをやつて居るが、其頃は英語と来たら大嫌ひで、手に取るのも厭な様な気がした」(夏目漱石『中学生時代』)



 少年時代から漢籍に親しみ、自らも漢詩を創作していたという漱石。和田利男さんによる本書『漱石の漢詩』では、漱石の漢詩を、洋行以前の第一期、修善寺大患時代の第二期、南画趣味時代の第三期、『明暗』時代の第四期に分類し、それぞれの時代の漢詩を紹介。どのようにその漢詩が移り変わっていったのかを分析していきます。



 たとえば漱石が作った漢詩のうち、今日に残る最古の作品がこちら。



鴻台冒暁訪禅扉(鴻台 暁を冒して 禅扉を訪ふ)

孤磬沈沈断続微(孤磬沈々 断続して微なり)

一叩一推人不答(一叩一推 人答へず)

驚鴉撩乱掠門飛(驚鴉撩乱として 門を掠めて飛ぶ)



 この大意は、「朝早く鴻台(千葉県の国府台)の禅寺を訪ねると、磬の音がかすかに、きれぎれに聞えていた。扉を叩いたり、推したりして案内を乞うたが、返事はなく、ただ、驚いた烏どもが、門をかすめるようにしてばたばたと飛び立った」(本書より)というもので、漱石が17、8歳の頃に作ったものではないかと考えられているそうです。



 また、第四期にあたる晩年、1916年8月14日から最後の病床に就く前々日である11月20日までの100日足らずの間には、漱石は75首もの漢詩を作ったといいます。この時期、漱石は朝日新聞に小説『明暗』を執筆中でしたが、『明暗』は人間の醜い利己心を徹底的に解剖し抉り出した作品。人間のどす黒い醜悪なものを毎日毎日凝視しなければならなかったため、苦痛を感じるように。その苦しさや不快さから逃れるために漢詩の世界に救いを求めたのだといいます。



 実際、8月21日付の久米正雄、芥川龍之介宛の書簡に、漱石は次のように綴っていたそうです。



「夫でも毎日百回近くもあんな事を書いてゐると大いに俗了された心持になりますので三四日前から午後の日課として漢詩を作ります。日に一つ位です。さうして七言律です。中々出来ません」(本書より)



 漢詩という観点から眺めれば、漱石の新たな一面を伺い知ることができるかもしれません。