"金さ君。金を見ると、どんな君子でもすぐ悪人になるのさ"



"妻はある時、男の心と女の心とは何うしてもぴたりと一つになれないものだらうかと云ひました"



"呑気と見える人々も、心の底を叩いて見ると、どこか悲しい音がする"



"凡そ世の中に何が苦しいと云つて所在のない程の苦しみはない"



 これらはいずれも夏目漱石の言葉。一つめと二つめは『こゝろ』に、三つめは『吾輩はである』に、そして最後は『倫敦塔』の文中にあらわれる一節です。このように漱石の作品のなかには、現代にも通じる教訓ともいうべき名言の数々が登場します。



 姜尚中さんによる本書『漱石のことば』では、こうした漱石の名言に注目。自我、文明観、金銭観、善悪、女性観、男性観、恋愛観、審美眼、処世雑感、死生観といった多岐に渡る、148の文章が紹介されていきます。



 たとえば金銭観にまつわるもの。漱石作品においては、お金に関する話も頻出し、作品のなかの重要な要素となっています。



「大学を出た後も職に就かず、親の脛をかじっている子供。逆に、子供に恩を着せて、将来世話になろうとするさもしい親。毎月生活費が足らず、しょっちゅう諍いになる夫婦。お金の臭いを嗅ぎまわり、たかりに精を出す厚顔者。はたまた、財産を騙し取られ、人間不信に陥る男。お金が人の心に及ぼすあらゆる側面が、陰に陽に描かれます」(本書より)



 では実際、どのように描かれているのか具体的に見てみましょう。まずは、親の財産をめぐって、『こゝろ』の登場人物である先生が主人公の私に、次のようなアドバイスをする場面。



"君のうちに財産があるなら、今のうちに能く始末をつけて貰つて置かないと不可いと思ふがね、余計な御世話だけれども。君の御父さんが達者なうちに、貰うものはちやんと貰つて置くやうにしたら何うですか。万一の事があつたあとで、一番面倒の起るのは財産の問題だから"



 一番面倒の起こるのは財産の問題、という言葉は、身に覚えのある方もいらっしゃるのではないでしょうか。



 続いて『三四郎』での、登場人物である三四郎と与次郎との会話。



"「君、あの女には、もう返したのか」

 「いゝや」

 「何時迄も借りて置いてやれ」"



 お金の貸し借りはトラブルの元ではありますが、ときにそれが縁となり緊密になる男女関係も。お金の不思議さをあらわした文章です。



 この他、『道草』には"みんな金が欲しいのだ。さうして金より外には何にも欲しくないのだ"との金言、『吾輩は猫である』には"地球が地軸を廻転するのは何の作用かわからないが、世の中を動かすものは慥かに金である"との一節が。いずれも時代を超えて、通じるところの多い名言といえそうです。



「私が漱石を愛するのは、彼が隠遁的な態度にならず、懐旧にも向かわず、あくまでも目の前の現実を見つめ、そこで苦悩する人たちを描いたからです。なおかつ、その中で人間がいかによく生きるかを考え続けたから」(本書より)だという姜尚中さん。



 ひとつひとつの文章に注目しながら漱石作品を読み直してみると、いまの自分に必要な生きるヒントに出合えるかもしれません。