今年も8月15日、「終戦の日」がやってまいりました。自宅や職場など、それぞれが生活する場所で、戦争で亡くなった先人を偲び、今の平和な日本に感謝しつつ祈りを捧げる方も多いことでしょう。



 一方、東京・九段の靖国神社では毎年、一般の参拝者に混じり「天皇陛下万歳!」「日本人に誇りと威厳を!」などと声を上げる集団が登場し、それに対抗するがごとく左翼団体も「少し離れた近くの場所」をデモ行進しています。両者の一触触発のにらみ合いはある意味で、同地域では"夏の風物詩"ともなっていますが、こうした「右側の人と左側の人の衝突」は近年、東京・新大久保や、大阪・御堂筋などでも複数回、起こるなど全国的に頻発しています。



 背景には、近年、叫ばれている「右傾化」が要因のひとつに挙げられるでしょう。実際に日本全体が右傾化しているかは別として、そちら側の人の言動が目立っているのは間違いありません。事実、以前に比べて「ナショナリズム」「愛国心」といった言葉を耳にする機会は増えていると思います。もちろん、それは日本に限った話ではないかもしれませんが。



 ここで質問です。カタカナで書く「ナショナリズム」が正確にはどういった意味を持つのか、皆さんは説明できるでしょうか? 



『ナショナリズム入門』の著者、植村和秀さんによると、ナショナリズム(Nationalism)、あるいは、ネイション(Nation)を日本語に訳そうとしても、多義的になってしまい「一言では表せない」としています。というのも、ネイションは「国家」「国民」「民族」と複数の意味を持ち、それにイズム(ism、主義)をつけると「国家主義」「国民主義」「民族主義」と、それぞれ異なる意義の言葉ができあがってしまうからです。



 そこで、植村さんは本書の中で、あえて日本語に訳さず、ナショナリズムの定義を「ネイションへの肯定的なこだわり」と位置づけています。もちろん、過度なナショナリズムは排外的な空気が醸成されやすくなりますし、かといってナショナリズムが全くないと、ネイションを運営していくためのまとまりがなくなってしまいます。



 この点で植村さんは、集団を尊重するナショナリズムや民主主義は「人間を動かそうとするアクセル役」、そして個人の自由を尊重する自由主義は「ブレーキ役」としています。2つが近代国家という「車体」でバランスよく組み合わさることで、最も高速かつ安全に走れるようになる、すなわち安定した国家運営ができるというのが植村さんの見方です。



 以下、余談です。



 中国が国民のナショナリズムを啓発するときに「中華民族」という言葉を用いますが、「民族」とは、もともと中国語にある言葉ではなく、日本語から転用されたものであることも、本書の中で説明されています。



 かつて、中国が清帝国であった時期の民族主義思想家たちは、日本のナショナリストや関連する文献と接触。影響を受けたことで、和製漢語である「民族」が中国でも流通していった、とされています。日本と中国、互いの民族感情が沸騰し、対立を深める昨今ですが、こうした言葉のルーツを考えると、皮肉を感じずにはいられません。