幼いころ、何か悪いことをしたときに「神様は何でもお見通しだよ」と叱られた記憶はありませんか。それは、「いつだって神様が見守ってくれているもの」という思いの裏返しでもあると言えるでしょう。



ところが、日本の神話の世界を描いた『古事記』をひもといていくと、必ずしも「神様は何でもお見通し」とは言い切れないことがわかります。『現代語古事記 神々の物語』から、こんなエピソードをご紹介しましょう。天の国である高天原(たかまのはら)が、地上の国である葦原中国(あしはらのなかつくに・現在の日本列島とする説も)の支配権を大国主神(おおくにぬしのかみ)から受け継ぐ「国譲り」のなかでのお話です。



天の国の神・天照大神は、数回に渡って使者を遣わし、地上の神々を説得させようと試みますが、使者はなかなか帰ってきません。あるとき、2番目に遣わせた「天若日子(あめのわかひこ)」のもとへ雉(キジ)をよこし「なぜ帰ってこないのか」と連絡をさせました。しかし、その雉の声を聴いた巫女の助言により、天若日子は雉を殺してしまいます。



雉を貫いた矢はやがて、天の神々のところへ飛んで行きました。事情を知らない天の神々は「もし天若日子が命令に背かず、悪しき神を射た矢が届いたのであれば、天若日子には当たるな。もし邪心があったならば、天若日子はこの矢にあたって死ぬ」と言って矢を放ちます。矢は天若日子の胸に当たり、死んでしまいました。



このエピソードをもとに、同書ではこんな解釈を添えています。



「『古事記』のこの部分から、我々は衝撃的なことを知ることになります。どうやら高天原からは地上世界のことがよく見えないようです。鳴女(なるめ・雉を指す)は国譲りの使者ではなく、天若日子の様子を知るために派遣されたものでした。高天原から葦原中国が見えていたら、鳴女を派遣する必要はありません。しかも、血の付いた矢が高天原に飛んで来ても、天つ神はまだ天若日子が裏切ったことを見抜くことができませんでした。だから、呪術をかけて矢を引き返したのです。(中略)一口に『神様』といっても、八百万の神(やおよろずのかみ)がおいでですから、国つ神(くにつかみ)は地上世界を見ることができるでしょう。しかし、少なくとも高天原においでの天つ神からはあまり見えないようです。よく『神は必ず見ている』といいまずが、『必ず』とは決して言い切れないことが分かります」



このように、天の国の神々ですら地上の神々の様子をよく把握できていないのではれば、私たち人間の様子など、余計に分かりにくいと考えるべきなのかもしれません。だからこそ、日本人は昔から神社へ参拝し、日頃の感謝やお祈りを捧げてきたのでしょう。逆にいえば、いつも感謝の念を抱いているからといって、ただ思っているだけでは神様にはなかなか伝わらないということでもあります。古事記には、こういった日本人の習慣の根拠となるエピソードも多く、読むとハッと気づくことがあるかもしれません。