キャンディーズは「普通の女の子に戻りたい」と解散宣言したけど、私も政治家になって、自分の時間がなくなって、ふっと「普通のおじさんに戻りたい」と思う瞬間がありますよ。ただ、まだやり残した夢があるし、そういうわけにはいきませんけどね。

 2011年4月、スーちゃんが亡くなったとき、私は自民党の政調会長でした。マスコミの取材を受けて、「とても残念だけど、3人そろってのキャンディーズというのは我々の世代の心の中に生き続けます」と言ったのを覚えています。

 私は今でも、キャンディーズの解散コンサートのDVDを時々見ることがあります。その中で、3人が「幸せでした」と語っていたけど、私たちにとっても本当に幸せな時間だった。

[左]さよなら公演のキャンディーズ。左から藤村美樹、伊藤蘭、田中好子=1978年 (c)朝日新聞社/[右]後楽園球場が満員になった1978年4月4日のサヨナラ・コンサート (c)朝日新聞社
[左]さよなら公演のキャンディーズ。左から藤村美樹、伊藤蘭、田中好子=1978年 (c)朝日新聞社/[右]後楽園球場が満員になった1978年4月4日のサヨナラ・コンサート (c)朝日新聞社

■著述家・編集者・新生「全キャン連」代表 石黒謙吾『解散コンサート後は茫然自失』

 僕は通称「赤組」ラン派です。「みごろ!たべごろ!笑いごろ!!」で、ランちゃんがおかしな少年役を演じるコーナーがありました。その役柄がご本人そのままでしたね。すかしてなくてちゃめっ気があって。

 キャンディーズ解散までの2年間、高校生だった僕は、金沢から全国に追っかけをビッチリやってました。コンサートは通算100回くらいは行きました。

「全キャン連」の同志で、ライブで紙テープを投げるのに燃えてました。山なりに投げてハンドマイクを持つ腕にかかるように落下させるのが最高の快感で、めったにうまくいかないのですが(笑)。

著述家・編集者・新生「全キャン連」代表 石黒謙吾 (撮影/上田耕司)
著述家・編集者・新生「全キャン連」代表 石黒謙吾 (撮影/上田耕司)

 3人を応援したい、テープでつながっていたいと、1ステージで100本とか投げていたので、少なめに見積もっても軽く5千本はいってます。ランは赤、スーは青、ミキは黄というイメージカラーがあって、3人のパートではそれを投げるのがお約束。僕は100本のうち半分は赤色にしていました。銀紙を1センチ角に切ってテープに挟み込み、それが3人の頭上で開くと、キラキラと紙吹雪のようになってきれいでした。

 78年の「ファイナルカーニバル」には5万5千人が集まりました。午後9時17分、コンサートは終了したんですが、どうしたらいいかわからなくて、茫然自失で1時間くらい立ち尽くしました。バックバンドの「MMP」リーダーの故・渡辺茂樹さんが「キャンディーズはもうここにはいません!」とアナウンスしてましたが、みんな帰る気がしなかったんですね。

 当時、キャンディーズを自主的に応援する「全キャン連(全国キャンディーズ連盟)」という組織が、北海道から九州まで全国に9支部ありました。コール表というのがあって、みんなで公民館に集まって、「C・A・N・D・I・E・S・hey!」とか「ゴーゴーゴーゴーランスーミキhey!」とか、コールの練習をしました。紙テープもコールも、会場中で統制が取れていて、その一体感が最高なんです。今のアイドルのコール、元祖が、僕たち「全キャン連」なんです。

 伊藤蘭さんがソロ歌手デビューして、41年ぶりにナマでライブが見られるなんて夢のようです。僕は六つ下なので、4月に取材でお会いしたとき、「100歳まで見続け聴き続けたいので106歳まで生きてくださいね」と言ったら大笑いしていました。

(聞き手/本誌・太田サトル、上田耕司)

週刊朝日  2019年6月14日号より抜粋