慶應義塾大学(左)と早稲田大学
慶應義塾大学(左)と早稲田大学

 1903(明治36)年、早稲田大学野球部の“挑戦状”を慶應が受けたことで始まった「早慶戦」。当時からその白熱ぶりはすごく、06年からは両校の応援があまりにも過熱したことで中断したことも。東京六大学野球リーグ発足により、現在まで再び盛り上がっているが、数々のドラマを回顧する。

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 早慶戦を中心に盛り上がりを見せていた東京六大学野球リーグであるが、43年春から45年秋まで、戦争のために中断を余儀なくされる。

 学生たちが次々に出征するころ、慶應の小泉信三塾長らの呼びかけで、「学徒出陣壮行早慶戦」、いわゆる「最後の早慶戦」が43年10月16日、戸塚球場で行われた。

 結果は10-1で早稲田の勝利。試合後、スタンドの学生らは早稲田が「若き血」を、慶應が「紺碧の空」を歌うなどして戦地へ向かう学生らに餞(はなむけ)の歌を贈ったという。

 そしてさらに時代は下り、60年。社会は岸信介内閣の日米安全保障条約改定への反対運動が激化する政治の季節。同年秋、早慶戦の盛り上がりは最高潮を迎える。「早慶6連戦」の始まりだ。

 当時の早大主将の徳武定祐さん(84)は「これまでの六大学野球の中で最も光り輝いているのが早慶6連戦」と話す。

 神宮球場には6日間で三十数万人の観客が押し寄せた。球場でスコアをつけていた、当時早大3年生の後藤讓さん(83)は、「老若男女、すべての世代に注目されていて、ベンチシートにぎゅうぎゅうに人が座っていました」と振り返る。

 この年の秋季リーグは第7週終了時点で、慶應が8勝2敗、勝ち点4で首位、それを早稲田が7勝3敗、勝ち点3で追っていた。慶應が勝ち点をあげれば優勝、早稲田は連勝すれば逆転優勝、2勝1敗なら優勝決定戦という状況だった。

 11月6日、熱戦の火ぶたが切って落とされる。初戦は2-1で早稲田の勝利。2回戦は慶應が意地を見せ、4-1でタイに持ち込む。命運は3回戦に託された。

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唐澤俊介

唐澤俊介

1994年、群馬県生まれ。慶應義塾大学法学部卒。朝日新聞盛岡総局、「週刊朝日」を経て、「AERAdot.」編集部に。二児の父。仕事に育児にとせわしく過ごしています。政治、経済、IT(AIなど)、スポーツ、芸能など、雑多に取材しています。写真は妻が作ってくれたゴリラストラップ。

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