田原総一朗・ジャーナリスト
田原総一朗・ジャーナリスト

 ジャーナリストの田原総一朗さんは、井伊直弼の“決断”を引き合いに故・安倍晋三元首相を評価する。

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 私は滋賀県彦根市で生まれ、高校を卒業するまで彦根市で育った。88歳の今、彦根市で生まれ育ったことが私の人生を決めたのだと改めて強く感じている。

 私は幼稚園時代に、祖母に二つのことを言われた。もっとも、そのときはただ聞いただけであったが、その二つの言葉が私の人生を決めたと言っていい。

 一つは、「近江商人というのは昔から“三方よし”でやってきた。お前もそのつもりでやれ」。そして二つ目は、「今は薩長(明治維新を牽引した薩摩藩や長州藩出身者が中心)の時代だから、彦根の人間は役人や政治家になっても偉くなれない。だから、役人や政治家にはなるな」ということであった。

“三方よし”とは近江商人の心得である。買い手、売り手ともに満足できるよう客に信用されること、そして社会からも信用されること。これらが達成されてこそ商売がうまくいく、というのである。

 この考えが重要であるということは、成人して実際に仕事をするようになって改めて感じたことだ。現在もなお“三方よし”でなければならないと強く思い、政治家にも経営者たちにも説いている。

 問題は二つ目の言葉である。

 彦根は、江戸時代は井伊家の城下町であった。井伊家といえば、江戸時代末期に大老であった井伊直弼が有名である。

 鎖国していた日本に米国のペリーが来航し、開国を求めてきた。断れば戦闘になる。もしも戦闘状態になれば、日本が米国に勝てるはずがない。そこで直弼は米国と日米修好通商条約を結んだのだが、これが尊王攘夷に凝り固まった旗本らの怒りを買い、直弼は桜田門外で浪士らによって殺害された。

 直弼が朝廷の許可を得ていなかったという問題はあるが、もしも直弼が米国との条約を拒否していたら、日本は米国との戦闘となり、日本は惨敗、そして植民地にされていたはずだ。その意味で、直弼の命を張った決断こそが日本を救ったのである。

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田原総一朗

田原総一朗

田原総一朗(たはら・そういちろう)/1934年、滋賀県生まれ。60年、早稲田大学卒業後、岩波映画製作所に入社。64年、東京12チャンネル(現テレビ東京)に開局とともに入社。77年にフリーに。テレビ朝日系『朝まで生テレビ!』『サンデープロジェクト』でテレビジャーナリズムの新しい地平を拓く。98年、戦後の放送ジャーナリスト1人を選ぶ城戸又一賞を受賞。早稲田大学特命教授を歴任する(2017年3月まで)。 現在、「大隈塾」塾頭を務める。『朝まで生テレビ!』(テレビ朝日系)、『激論!クロスファイア』(BS朝日)の司会をはじめ、テレビ・ラジオの出演多数

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