芸術家として国内外で活躍する横尾忠則さんの連載「シン・老人のナイショ話」。今回は、神社仏閣と芸術について。

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「一時期参禅されていましたが、神社とお寺などに行ってお願いごとをしますか?」

 禅寺は信仰の対象というより、自己を見つめるという修行の場で、禅宗は仏像もお経もあんまり必要としないように思います。だから禅寺はお願いごとをかける場所ではないのです。

 願いごとをかけたいならお寺か神社です。僕は神社仏閣が好きで、地方に行くと、つい立ち寄ってしまいます。森に囲まれた夏でもひんやりする清浄な空気に触れるだけで気持ちが浄化された気分になるのはやっぱり神社ですかね。お寺には仏像が安置されていたりすると、つい審美眼が働いて、お参り意識が薄れてしまいますが、神社は神様が祀ってあるというので、つい人間の存在を超越した力の加護を求めて何かを願うというよりも思わず手を合わせて祈ってしまいます。

 このような気持ちは絵を描いている時にも感じます。自分の小さい自我では表現の限界を感じて、自分を越えた創造力に出合いたい、そんな時に無意識に神仏の力を求めているように思います。芸術家というのは欲張りで、常に自分を越えたいと思っているのです。そんな時は神の名を出さないまでも、何か超越した力を共有したいと願っています。

 だからか神社仏閣に参ると謙虚な気持ちになって、お願いごとをする以前に、「いつも絵を描かせていただいてありがとうございます」なんてペコッとおじぎをしてしまいます。何だか恐れ多くて願いごとなどできないような気がするのです。それでも願いごとがある時は、お願いする以前に、すでに願望が達成したかのようなイメージを頭に抱いて、過去完了形で「達成させていただいてありがとうございます」なんて先にお礼を言ってしまうのです。するとその分、自我が消滅することになるんじゃないかと思うのです。自我が作用する以上、欲望が前面に出て、かえって願望は達成しません。

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横尾忠則

横尾忠則

横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。20年東京都名誉都民顕彰。

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