西洋医学だけでなく、さまざまな療法でがんに立ち向かい、人間をまるごととらえるホリスティック医学を提唱する帯津良一(おびつ・りょういち)さん。老化に身を任せながら、よりよく老いる「ナイス・エイジング」を説く。今回のテーマは「鮮明すぎる記憶」。

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【機銃掃射】ポイント

(1)歳をとると大昔の記憶が鮮明に蘇ってきたりする

(2)終戦前、魚獲りをしていたら敵機の機銃掃射を受けた

(3)無事に逃げて戦利品の薬莢を学校で見せびらかした

 歳をとると、人の名前が出てこなかったりする一方で、大昔の記憶が鮮明に蘇ってきたりします。私にとって、この記憶はそうしたもののひとつです。今でもまざまざと情景が浮かびます。

 太平洋戦争が終わったのが1945年8月15日。この年の3月の東京大空襲あたりから戦局の悪化が激しく、物資は窮乏をきわめました。一般の家庭では米飯にありつけずにイモを食べ、子どもたちは古着ばかり。

 でも、当時(埼玉県)川越市で小学4年生だった私たちはそれほど深刻ではありませんでした。連日のように東京から疎開してくる女の子を見ては、「やっぱり、東京の子は上品だな」と感心していました。土曜日、日曜日は魚獲りに夢中でした。

 その日も同級生5、6人で魚獲りです。魚の獲り方はまちまちで、川に入り込んで三角網ですくう子もいれば、静かに釣り糸を垂れる子もいます。私は捕まえた蛙を餌に、ザリガニ釣りに夢中でした。

 そこに警戒警報です。ここで本来は釣りを中止すべきなのですが、みんな釣りが大事で反応を示しません。そうこうしているうちに、空襲警報のサイレンが鳴り響きました。こうなると、一同色めき立ちます。一斉に店仕舞いを始めましたが、それが終わらないうちに、東南の空に敵機が姿を現しました。「あっ、来た」と思っていたら、あっという間に近づいて、操縦士の顔が見えるほどに迫りました。同時に、

「ダダッダダッダダァ」

 と機銃掃射の音が響きました。私たちに向けて銃撃してきたのです。

 一同、バケツを放り出して、お茶の木のかげに逃げ込みました。

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帯津良一

帯津良一

帯津良一(おびつ・りょういち)/1936年生まれ。東京大学医学部卒。帯津三敬病院名誉院長。人間をまるごととらえるホリスティック医学を提唱。「貝原益軒 養生訓 最後まで生きる極意」(朝日新聞出版)など著書多数。本誌連載をまとめた「ボケないヒント」(祥伝社黄金文庫)が発売中

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