芸術家として国内外で活躍する横尾忠則さんの連載「シン・老人のナイショ話」。今回は、流行について。

*  *  *

「夢」というお題を鮎川さんにいただいたその夜、鮎川さんの運転する車に同乗して、山の中の道を走っている。やがて右手の茂みの中に通じる小径を発見したので、「ちょっと車を止めて森の中を散策しませんか」と鮎川さんを誘った。森の中は樹木に覆われていたが小径に沿って一段低いところに小川が流れていた。その時森の中から出て来た40がらみの男が僕に声を掛けた。「インドにいらしていた頃とちっとも変わりませんね」。(えっ、50年前と変わらないって、そう、僕は年を取らないことにしているんだ)。声には出さなかったが、まんざらでもない。

 鮎川さんが「おそばが食べたいですね」と言うと、その見知らぬ男は、「ラーメンならありますよ」と言ったが、鮎川さんは彼を無視して、僕を促して車に戻った。そして再び森の中の道を走った。しばらく走ると、広々とした明るい高原に出た。何軒かのしゃれた家が点在している。もしかしたらおそば屋があるかも知れないと思ったが、急に高原の風景が、ジグソーパズルのように小さい断片として粉々になって、僕は半覚醒状態のままベッドの中で、夢を見ていたことに気づきました。

 最近見る夢はこのような日常の延長とさほど変わらないものばかりで、昔のような超自然的なファンタジーに満ちた夢は皆目見なくなってしまったのです。夢は現実に対して虚構という二つの領域を所有することで人間は存在していると考えていました。また、そのことが生きていく上で必要不可欠であるとさえ思っていたのです。だから昼と夜の世界を行き来する愉しみがありました。

 フロイトによれば、夢は無意識の願望の具現化したものだと言いますが僕は必ずしもそうだとは思いません。夢には虫の知らせなど、親族の死の際に、時には生前の姿で夢枕に立つこともあります。僕もその経験をしています。死者のことを無意識に願望していたわけではありません。この場合の夢はどちらかというと他者の想念がテレパシックされたものです。夢を何でもかんでも無意識の願望充足による自己表現だとするフロイトの考えには納得できません。中にはエドガー・ケーシーのように夢の超自然的な側面の予知能力によって、未来を予言したり、病人を治療する人もいます。

著者プロフィールを見る
横尾忠則

横尾忠則

横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。20年東京都名誉都民顕彰。

横尾忠則の記事一覧はこちら
次のページ