村田兆治さん
村田兆治さん

 マサカリ投法で知られた名投手、村田兆治さんが突然の死を遂げた。11月11日未明、東京都世田谷区の自宅で火災が発生。意識不明の状態で運び出され、午前6時前に死亡が確認された。享年72。死因は一酸化炭素中毒とみられている。

【写真】ロッテ投手時代の村田兆治さん

 この報に触れたとき、9月の、あの出来事との関連を思わずにはいられなかった。改めて村田さんの人生を振り返る取材をすると、やはり、その思いは強くなる。

 広島出身の村田さんは1967年、東京オリオンズ(現ロッテ)にドラフト1位で入団。エースとして活躍していた82年に肘を故障するが、翌年、当時まだ珍しかった靱帯再建手術を受け、2年のリハビリを経て復活。85年に17勝でカムバック賞を受け、40歳だった90年に2桁勝利となる10勝を挙げ引退した。現役時代を取材した記者が語る。

「情があって熱い人。自分はどれだけ努力したかという話を聞かされましたが、努力は報われると思っていたからでしょう。引退間際にも凄いトレーニングをしていて、それを人にも求める。伊良部(秀輝)ら当時のロッテの若手投手たちは逃げてました(笑)。それでも暴力は見たことがなかった」

 今年は辞退していたが、沢村賞の選考委員を長く務めてきた村田さんを取材した記者は、こう語る。

「何度も『今回はしょうがないが、私は該当者なしでいいと思ってました』という言葉を聞きました。一本気で、エースはこうあるべきという信念があり、自分と同じ先発完投型で三振をどんどん奪う投手が好きでね。投球イニング数と奪三振数が少ないと認めないんです」

 実は私にも、村田さんとの忘れられない思い出がある。2016年3月の試合の始球式で131キロを投げ「66歳とは思えない」と報じられたとき、電話で取材を申し込むと「不本意」と言われた。改めて手紙を書いて了解を得て、自宅を訪ねてその本意を聞くと、「もう少しトレーニングをすれば、もっと速い球が投げられた。OBになってもファンに夢を与えなければ、と思って生きてきた。離島で子供たちに野球を教えているのも、そんな思いから」だから、あれで騒がれるのは「不本意」だと。

次のページ
「最後まで諦めずに人生というプレーを続けなければ」