作家・片岡義男さんが評する「今週の一冊」。今回は『早稲田古本劇場』(向井透史、本の雑誌社 2200円・税込み)。

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『早稲田古本劇場』の著者である向井透史さんは早稲田の古書店「古書現世」の現役2代目だ。本書の本体には、表紙から背をへて裏表紙まで、一点の写真があしらってある。背のまんなかで帳場に埋まっている男性が、笑顔をこちらに向けている。店主だろう。

 2010年の夏から2021年の年末までを、古書店の帳場から見てきた記録が本書だ。日誌のかたちで書かれている。どこから読んでもいいし、どこで中断してもいい。

「こんな地面すれすれの低空飛行で今後生きていけるのだろうか」と著者は「あとがき」のなかで書いている。低空飛行は置いておくとして、「店先の面白劇場」は豊富だと評者は思う。こんなに面白いとは、知らなかった。

 金髪をなびかせた美少年が帳場の前に立ち、「ワタシハ、ドストエフスキーデス」と言うから、『罪と罰』の文庫を差し出すとうれしそうに買っていく。「私はドストエフスキーを研究しています」と言えない程度の日本語だと、「私はドストエフスキーです」ともなるのだろう。

 全身をピンクの服に包んだ小太りの男性がドアからこちらを凝視している。やがて彼は店に入ってくる。そして店主の目をじっと見る。蛇ににらまれた蛙の心地、と著者は書く。男はなにも買わずに店を出ていく。店内で立ち読みをしていた男性がいきなり、「すみません、オナラしていいですか」と店主に言う。店主がいかに応答したか、36ページにあるから読むといい。

 毎日のようにおなじ時間に店に来て、本を物色するが買わない、ということを何年も続けている60歳くらいの男性を、どうすればいいのか。天狗のお面をかぶって店に入ってくる男を、店主は見守るほかない。店に入るときすでに天狗の面をつけている。そのまま店内を見て、天狗のお面をつけたまま店を出ていく。どこにでもいるようなスーツ姿なのだが、頭には兜をかぶっているお客を、どうするか。戦国の武将のような兜だ。店に入ったらその兜を取れ、とは言えないだろう。

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