芸術家として国内外で活躍する横尾忠則さんの連載「シン・老人のナイショ話」。今回は、「運命」について。

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 昔から気になることで、その実体がもうひとつわからないことがある。それは「運命」ということだ。手元の辞書を引いてみると、「人間の意志にかかわらず、身にめぐって来る吉凶禍福」とある。また「運命論」は「人生の一切は、あらかじめ決定されていて、人の力ではどうすることもできないという考え方」(岩波国語辞典)。

 だったら、おまかせするのが一番いいことになる。だけど、この運命の論理がのみ込めてないと、そう簡単に「おまかせ」することができない。「おまかせ」した生き方のできる人を運命論者というらしい。

 人は生まれて何歳頃から自分の運命について考え始めるのだろう。早い人もいるし、大人になってから気づく人もいるだろう。だけど気づいた頃にはすでに運命に逆らった生き方をして、それが思い通りにならないで、わが身の不幸を嘆き悲しんでいる人もいるはずだ。自分の生まれた家庭環境にまかせてしまった結果、いきなり人生のどん底に突き落とされたという人にとっては運命は非人間的な自然の法則としかいいようがない。

 このように思い通りにならない現実に度々遭遇することで、その人は次第に非運命論者に変容していくに違いない。だから辞書に書いてあるような生き方をしたらとんでもない、破滅するしかないと決めつけてしまう人が大半かも知れない。

「人生の一切はあらかじめ決定されている」のだったら、その人生に抵抗しないで、身にめぐってくるあらゆる事象を受け入れるのが一番いいということになる。つまりこれこそが自然体ではないのか、ということになる。ここには個人の意志は介在しないことになる。妙な欲望や、野心や、願望や、執着に振り回される必要はない。だから、面倒臭いことはいっさいなく、悩みもない。へへ、のんきだねの世界である。そう考えると運命の想い通りに従う生き方は理想的ではないか。ほっとけば、なるようになっていくわけだから、こんな便利なことはない。人と競うことも、争うこともない。だって自分の意志にかかわらず、めぐってくるものに身をまかせばいい、ということだ。だけど、「吉凶禍福」というように、思わぬ不幸に巡り合ってしまうこともある。そんな時でさえ、事のなり行きに従えばいいというのだろうか。その時はその時で、色々関わってくる問題もありそうだが、一旦、運命にまかせた以上、運命に責任を取ってもらうくらいの覚悟はあった方がいいだろう、というぐらいの覚悟をして、初めて運命に従う必要があると思う。

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横尾忠則

横尾忠則

横尾忠則(よこお・ただのり)/1936年、兵庫県西脇市生まれ。ニューヨーク近代美術館をはじめ国内外の美術館で個展開催。小説『ぶるうらんど』で泉鏡花文学賞。2011年度朝日賞。15年世界文化賞。20年東京都名誉都民顕彰。

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