早稲田大学の大隈講堂(左)慶應義塾大学の三田キャンパス
早稲田大学の大隈講堂(左)慶應義塾大学の三田キャンパス

 大隈重信没後100年、『学問のすすめ』初版発行から150年を迎える今年は、早慶双方にとって節目の年だ。創立以来、両校の校風はどう変わってきたのか。今後はどのような関係を築いていくのか。早稲田大学の田中愛治総長と慶應義塾大学の伊藤公平塾長が語り合った(7月12日、オンラインで実施)。

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伊藤:先日は「早稲田スポーツ125周年記念式典」にお招きいただき、ありがとうございました。素晴らしい時間を楽しませていただきました。

田中:伊藤先生には格調高い祝辞を用意していただき、ありがとうございました。伊藤先生も私も体育会の出身(編集部注・田中氏は空手部、伊藤氏はテニス部)ですので、お互いに通じ合うものがありますね。

伊藤:今回の式典で、初めて「都の西北」で始まる早稲田大学の校歌を3番まで腕を振って歌いました。神宮球場で反対側から見ると威圧的な印象もありましたが、実際にやってみると大変でいかに努力を要するものかが、初めてわかりました(笑)。

──両校の間には日常的な交流があるんですね。「ライバル」と目されることも多い中、意外な感じがします。

田中:教職員も学生も含め、交流は非常に盛んです。代表的なものが図書館で、20年以上前から、専任教職員・大学院生・学部生は入館カードが共通で使えるようになっています。学生間の関係では、やはり早慶戦ですね。スポーツのイメージが強いと思いますが、将棋部やコントラクトブリッジクラブ(トランプゲーム)など、あらゆる分野で活発に対戦しています。職員間でも、国際部、広報室、教務部など、さまざまな部署で、意見交換の機会を設けています。

──今年は大隈重信の没後100年に当たりますが、創始者同士の間にも交流があったとか。

田中:福澤諭吉先生が近代私学としての慶應義塾を設立したのは、早大の設立より20年以上遡る1858年です。当時、大隈重信先生は政府の高官として、福澤先生は教育者として活躍していました。顔を合わせるまではお互い「生意気な奴だ」と思っていたそうですが、ある時、雑誌の編集者が二人を引き合わせてみたところ意気投合し、肝胆相照らす仲になった。その後、明治14年の政変(1881年)で下野した大隈先生に、福澤先生は大学設立を勧めたと伝えられています。大隈先生は翌年、早稲田大学の前身となる東京専門学校を設立し、国家の未来を担う人材育成に乗り出しますが、開校式には福澤先生がいらしています。

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