下重暁子・作家
下重暁子・作家

 人間としてのあり方や生き方を問いかけてきた作家・下重暁子氏の連載「ときめきは前ぶれもなく」。今回は、「梅干し」について。

*  *  *

 早くに梅雨が明けた。関東甲信では観測史上最も早いという。「昨年は梅が不作でしたが今年はまあまあ。梅酢、梅干し、梅酒を仕込みました」という写真入りのLINEが知人から来た。

 今からお裾分けを頼んでおいた。やはり、家の梅の木から収穫し、作ったものが断然おいしい。

 息子の入学祝いに植えた梅の木が立派に成長したと聞けば、ますます惹かれる。

 知人の家は長野県の旧家で、昔ながらの建築に階段箪笥がしつらえられ、広々とした庭には季節ごとに樹々の花が咲く。

 以前はどこの家でも梅干しを漬けた。わが家でもこの時節、母とねえやが庭の片隅にござや新聞紙を敷いて梅を並べて干していた。たしかその後、黒い壺にしそと一緒に漬け込んだはずだ。

 子供の私はそれが楽しみで、すっかり漬かるまでいじってはいけないといわれても、早く食べたくて、まだ青い梅をこっそり一粒宝物のように持ち出して、自分の部屋に隠しておいた。

 梅干しは、祖母、母、義母、姉など家族の思い出につながる。

 この頃は男性が興味を持って、在宅勤務のつれづれに楽しんでいる。

 その味は様々である。酸っぱいのも塩辛いのもある。梅干しと聞いただけでしょっぱい顔になってしまう。確か梅干しを想い浮かべるだけでごはんを食べるというケチな男の落語があった。

 しかし、しかしである。今時の梅干しは違う。梅の産地も和歌山をはじめ多くあり、しょっぱいどころか仄(ほの)かに甘い。

 かつて梅干しは薬がわりに重用された。お腹をこわした時に食べ、熱や頭痛、歯痛にも貼った。その上で祖母が何やら怪しげなおまじないの文句を唱えてくれるとすっかり治った気になった。

 私は今も、お気に入りの梅は赤黒い、しょっぱいものに限るし、梅を黒く煮つめた梅エキスを愛用している。それを一さじなめるだけで、体調がたちどころに快復する気がするのだ。友人はコロナ予防には人に会ったら梅エキスをなめるのが一番と信じている。

著者プロフィールを見る
下重暁子

下重暁子

下重暁子(しもじゅう・あきこ)/作家。早稲田大学教育学部国語国文学科卒業後、NHKに入局。民放キャスターを経て、文筆活動に入る。この連載に加筆した『死は最後で最大のときめき』(朝日新書)が発売中

下重暁子の記事一覧はこちら
次のページ